聖書 旧約:ネヘミヤ記 13章1節~13節

    新約:マタイによる福音書 12章1節~8節

 

 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。

 週報にも書きましたが、今日、10月31日は、宗教改革記念日です。16世紀、ヨーロッパで起きたキリスト教の宗教改革は、誰かが新しい教会を作ろうとして起きた改革ではありません。 新しい教会を生み出すことが先ではなく、「改革」という言葉が示すように、原始キリスト教会が始まってから続いてきた、西方教会。カトリック教会のあり姿に疑問を持ち、聖書を深く学ぶことから、イエスさまが弟子たちに教えられた、聖書の原点に戻ろうという活動が、宗教改革と呼ばれています。

 ルターがカトリック教会に対して、質問状を出す前にも宗教改革運動を起こした人がいました。 14世紀のイギリスで、ジョン・ウィクリフというカトリック教会の聖職者が、ラテン語の聖書を一般民衆が読めるように英語に翻訳しています。ところが彼は、15世紀に開かれたカトリック教会の公会議において、異端者とされています。 また、チェコのヤン・フスという人は、ジョン・ウィクリフの影響を受けた教えを説いたことから、カトリック教会から異端者とされ、火刑に処されています。 その他にも、カトリック教会に対する抗議を行った人がいますが、マルティン・ルターが登場するまで、カトリック教会によって異端者として扱われました。

 

 15世紀に、カトリック教会の修道士だったルターは、ローマの信徒への手紙の中で、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(3章28節)という箇所に出会い、主イエス・キリストによる救いの真理に目覚めました。 それまでカトリック教会が教えてきたように、人が努力すれば救われると考えることは誤りで、イエス・キリストによる神の恵みを信じることだけが救いに至る道だと悟りました。 「信仰のみ」、つまり「神さまの恩恵のみ」、そしてその源泉としての「聖書のみ」ということが宗教改革の精神です。

 

 当時、カトリック教会は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂改修の資金集めのために、贖宥状を販売していました。この免罪符とも呼ばれるものについてルターは、人間の力で罪の赦しが得られるかのような、考えそのものが間違いだとして、1517年10月31日、ヴィッテンヴェルク城の教会の扉に「95箇条の論題」を貼り付けたことから、宗教改革活動が広がって行きます。 

 ルターはカトリック教会内の神学論争として、この論題を出しました。ところが、当時グーテンベルクの活版印刷術が普及した時でしたので、ルター以外のひとが、95箇条の論題を印刷し、配布したことによって、ルターの考えが多くの人に知られることになります。 カトリック教会は、教会内の神学者、エックとルターとの論争をさせますが、エックはルターに教皇の権威を否定させ、フスの教えにも正しいものがあると言わせて、彼の主張が異端だということを示させます。 そして、カトリック教会からルター宛に破門の警告書が出されましたが、ルターはその警告書を民衆の前で焼き捨てます。そして、ルターはドイツの民衆と教会を。ルーテル教会をたちあげることになります。 ドイツでは、ルター以外にもカトリック教会に反発し新しい教会を立てたグループがいますが、ルターの教会はドイツでは、福音主義教会とも呼ばれ、監督制度を重視する教会として発展していきます。

 

 ルターの後登場する、ジャン・カルヴァンは、フランスの神学者で、スイスのジュネーブで、宗教によって政治を行う改革に協力し、長老主義の教会を組織します。「長老教会」とは、長老制度を採用する教会のことを言います。 カルヴァンは、ルターが「信仰のみ」によって救われることを主張した点では共通ですが、「救いの条件を人間の側に一切置かず、救われた結果として隣人愛を実践して神さまに栄光を帰するという思想」が特徴です。

 そして、カルヴァンの神学思想を受け継ぐ教会を一般的に「改革派」と呼んでいます。 日本で「改革長老」教会というのは、改革派の思想を持つ、長老主義を採用している教会のことを指しています。

 

 さて、宗教改革についての話しが長くなりましたが、聖書から、神さまを信じることに関する改革を見ていきたいと思います。 始めに、ネヘミヤ記。旧約聖書に、エズラ記、ネヘミヤ記という書物が連続して綴じられています。この二つの書物は元々一つの書物だったと考えられています。バビロニア捕囚が終わった後、エルサレムに戻ってきた人々がエルサレム神殿を再建し、エルサレムの街を取り囲む城壁を再建する話しが描かれています。

 ネヘミヤ記では、ペルシアの首都スサで、アルタクセルクセス王の献酌官として仕えていたネヘミヤが、王の許可を得てエルサレムの城壁を再建します。 彼がスサでペルシア王に仕えていた時、バビロニアによって破壊されたエルサレムの城壁・城門が、そのままの状態で朽ちるままになっている様子をユダから来た人々から聞きました。 彼は、それを聞いて、イスラエルの民が犯した不信仰の罪を嘆き、悔い改めの祈りを祈ります。神さまがモーセ約束されたように、神の民イスラエルを再び約束の地に戻してもらえるように彼は祈りました。 その願いを神さまが聞かれ、ネヘミヤが王に給仕しているとき、ネヘミヤの心配事が、エルサレムの荒廃した城壁であることを知った王の心を動かし、ネヘミヤに町に帰る許可と、城壁を再建する許しが与えられることになります。

 

 ネヘミヤは破壊された城壁を秘密裏に調べ、自ら再建工事の監督に任じ、再建工事に着手します。エルサレムの街が再建されることを快く思わない近隣の諸国民は、敵意を募らせ、嘲笑と悪口を浴びせるだけでなく、工事を妨害するために武力攻撃を加えます。 それに対抗して、ネヘミヤは民を励まし、日夜警戒を怠らせず、人々に片手に武器を、片手に工具を持たせて工事を続けさせます。外部からの妨害だけでなく、民の中にあった社会的不平等から工事が停滞する原因を見つけ、その問題もネヘミヤは解決する改革を行います。 そのようにして、ようやく城壁・城門が完成します。また、人々が入る器ができても、エルサレムに住む人が少なかったため、民のかしらたちと、地方住民の10人に一人をエルサレムに住まわせることにしています。

 町の囲いができた「七月」には、エズラが律法を会衆の前で朗読し、レビ人たちはこれをアラム語に訳して会衆に教えたことで、民は「モーセの律法」を悟ることができました。 バビロニアによって滅ぼされた不信仰の町エルサレムが、再建されたのです。ネヘミヤはその後、ペルシアに一度戻り、12年後に戻って来ますが、その時、エルサレムの内部は、早くも問題を抱えていました。 祭司であるエリアシブはイスラエルの敵トビヤのために、神殿の一室を与えていました。レビ人は主に仕えることを受け取ることができるはずのものが与えられず、各地に離散していました。その他にも様々な不信仰な状態があったため、ネヘミヤは改革を行い、エルサレムが信仰の町として整えられるようにしたということが、今日の聖書箇所に当たります。

 ネヘミヤは神さまを礼拝すべき場所。主なる神さまが聖なる場所として示したエルサレムの街を整え、人々の信仰生活が正しく主を礼拝することができるようにと、改革をおこないました。 乱れた信仰を正しく立て直す改革は、16世紀の宗教改革にもつながる一つのできごとでした。

 

 さて、福音書に移り、イエスさまが、安息日に弟子たちが行った行動でファリサイ派の人々と議論した出来事を見ていきます。 ファリサイ派の人々がイエスさまのところに来て、弟子たちが安息日に畑で麦の穂を摘んで食べたことを問題にします。

 他人の畑に入って、手で麦の穂を摘まんでとることは、申命記23章26節で許されていることでしたが、穀物を収穫することは、安息日にしてはならない仕事にあたると、ファリサイ派の人々がイエスさまに忠告しに来ました。 実際、出エジプト記34章21節で、安息日には、収穫の時であっても仕事をやめねばならないとあり、弟子たちの行いは、麦の収穫にあたるというのです。 ファリサイ派の人々が問題としていることは、安息日の神聖さを侵害する行いを弟子たちが行っているということでした。

 

 イエスさまは彼らの忠告に対し、一つ目の答として、ダビデが神の家に入り、祭司のほかに食べてはいけない安息日の供えのパンを食べたという聖書の箇所を示します。 ダビデは、仕えていたサウル王から命を狙われ、機会を得てサウル王から逃げ出します。その時、ダビデは祭司アヒメレクのところに出向き、何も持たずに逃げ出してきた中、食べるものをいただきたいと願います。ところが、アヒメレクの家には、安息日に主に供える聖別されたパンしかありませんでした。それで、ダビデはそのパンをもらい、空腹を満たしました。

 ダビデは神さまの命令に背いて、神さまから離れてしまったサウル王に代わり、神さまに仕える王として油を注がれ、神さまに仕えるものとして立てられていました。その人物が今生きるために必要なものを求めたとき、安息日に供えられたパンであっても食べることを許されたと、イエスさまは説明されたのです。

 

 二つ目の答として、イエスさまは、安息日に神殿で神さまに奉仕する祭司たちは、他の人々と違い、安息日に禁止されている仕事をしても罪にならないと、律法にあると言われています。 神さまを礼拝する安息日に、礼拝のための準備と礼拝式そのものを進行する祭司が、仕事だからといって、何もしなければ、神さまを信じる人々が神殿に出かけても、礼拝をすることができなくります。それで、祭司たちは、安息日に禁じられていることを行っても罪にはなりません。 イエスさまは、ご自身も弟子たちも共に神さまに仕える者であるから、安息日に麦の穂を摘んで食べても罪にならないと教えられたのです。

 そして、6節の言葉。

 「神殿よりも偉大なものがここにある。」

 イエスさまが伝道をされていた当時、エルサレムにあった神殿は、エズラ記・ネヘミヤ記でバビロン捕囚から帰還した民が再建した神殿を、後の時代にヘロデ大王が増築して、美しく立派な建物だと人々から見られていた神殿でした。 ダビデ・ソロモンによって立てられた神殿では、その中にモーセが十戒を記した石版を納めた神の箱があり、神さまの臨在がそこにありました。ところが、バビロニア捕囚の後に再建された神殿にはその箱はありません。しかし、そうであっても、人々は神さまに祈りを献げる場所として、罪の悔改めの犠牲を献げる場所として神殿に来て、祈り続けました。 ユダヤ人にとって、エルサレムだけが、エルサレム神殿だけが信仰の中心地でした。

 ところが、イエスさまがこの世に来られ、十字架に架けられ、死んで葬られ復活し、天に昇られた後、私たちに聖霊を送ってくださいましたので、エルサレム神殿だけが神さまを礼拝する場所ではなくなります。 イエスさまご自身が神の独り子であり、私たちが礼拝する方ですので、目に見える神殿よりも、はるかに偉大で大切な方なのです。そのことをイエスさまご自身が、ファリサイ派の人々に告げられました。

 7節の、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」

という、ホセア書6章6節からの引用聖句。神さまは、安息日に罪の悔改めを求めるために犠牲の動物を神殿で献げることよりも、人が必要とするものを、仕事をしてでも得る方が大切だと教えられました。また、イエスさまと共に伝道活動を行った弟子たちもイエスさまと同じく、神さまに仕えている者ですので、安息日にレビ人が神殿で仕事をするように、麦の穂を摘んで食べる権利があると言えるのです。

 8節の「人の子は安息日の主である」

という言葉は、「人の子」という呼び方でご自身を示されたイエスさまが、ご自身を指して、神さまであるわたしが、神の民であるイスラエルに守るように教えた安息日について、その適用を定めることができると言われています。 神さまを礼拝する神殿よりも偉大な方であり、安息日の主である方とは、まさしく神さまご自身であり、神さまから遣わされた神の独り子イエスさまであることを、イエスさまご自身が教えられました。 エルサレムに立てられた第2神殿は、西暦60年にエルサレムを陥落させたローマ兵によって焼かれ、二度と再建されることはありませんでした。 しかし、だからといって、神さまを礼拝することができなくなったのではなく、イエスさまがおられるところ。イエスさまから送られる聖霊が共におられ、神さまを礼拝する場所が世界中のどこでも与えられるという新しい改革とも言うべき出来事が、イエスさまの十字架と復活の出来事によって、私たちにもたらされています。 このことは、ユダヤ教の伝統として行ってきた神殿礼拝が終わりを迎え、新しい礼拝が立てられたということです。イエスさまがなされた救いの御業を、宗教改革と比較することはできませんが、イエスさまが行われたことによって、新たな信仰の形が、神さまから私たちに与えられました。 そのことを、宗教改革を記念する今日、改めて、憶える必要があるでしょう。

 

 私たちの教会は、主イエス・キリストによって立てられ、2000年の教会の歴史の中で、神さまを心から礼拝する信仰を取り戻した宗教改革から引きつがれてきている教会です。

 「信仰のみ」、「聖書のみ」、「恩恵のみ」が救いへと導かれる聖書の精神であり、救われた結果として隣人愛を実践して神さまに栄光を帰することが、宗教改革の理念であったことを憶え、日々聖書のみ言葉によって新しくされて、今週も歩んでまいりたいと願います。