聖書 旧約:エレミヤ書 38章1節~13節

    新約:使徒言行録 23章12節~35節

 

 

 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。

 

 先週は、預言者エレミヤと使徒パウロに起きた出来事から、御言葉を伝える者に働く、神さまの助けを見ました。 今週も、その後、彼らに起きた出来事から、み言葉に聴いてまいります。

 エレミヤ書38章で起きた事件。先週の出来事よりも、今日の箇所は、はるかに緊迫した状況です。この時、エルサレムはバビロンの大軍に包囲され、ユダ王国はこれからどのように進路を進めなければならないか、決心しなければならない時を迎えていました。 この時、エレミヤはエルサレムの人々に、バビロンに投降してバビロンに連れていかれるのが、神さまの示す行き先だと告げていました。 もちろん、この言葉は、神さまからエレミヤに与えられた言葉でしたが、エルサレムの陥落を阻止することと、ダビデ王朝の存続を願うエルサレムの指導者たちは、エレミヤの言葉は、人々を扇動し、バビロンに投降をすすめる罪に当たると判断しました。 そこで、ゼデキヤ王は、役人たちからの訴えに対し、「王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」と言い、エレミヤの処分を役人たちの手に任せてしまいました。

 

 エルサレムの町が非常事態でなければ、決して王はこのような言葉で、預言者の処置を役人に任せることはなかったのでしょう。しかし、今や、王自らこの現状をどうすることも出来ないような切羽詰まった状況に置かれていたということが、言葉の中ににじみ出ています。 王から許可を得た役人たちは、自らの状況が非常事態であるのに、そのことに対応するのでなく、自らの不満のはけ口を求めるかのように、エレミヤを水溜の泥の中に投げ込んで、窒息させて死に至らしめようとしました。

 

 この時、役人たちの行いを聞いた、宮廷に使えるクシュ人の宦官エベド・メレクは、王に訴えて、「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから。」と告げました。 ゼデキヤ王は、今くだしたばかりの判断に真っ向から反対するエベド・メレクの言葉を聞いて、こんどはエレミヤを水溜から引き上げるように許可を与えます。 そこで、エベド・メレクは、王から連れて行くように言われた30人の者で、エレミヤを水溜から引き上げて助け出しました。

 

 この出来事から私たちは、何を聞き取るべきでしょうか。

まず一つ目に、エレミヤは2節で、「この都にとどまる者は、剣、飢饉、疫病で死ぬ。しかし、出てカルデア軍に投降する者は生き残る。命だけは助かって生き残る。」と告げています。 主の言葉は最初に、個人個人に対してその命が守られるようにしなさいと、あわれみと救いの言葉を告げている、ということです。人々がどれほど不信仰であっても、神さまは逃れの道を準備してくださったということです。 エルサレムの陥落と占領は、主の言葉としてエレミヤから語られていますが、そこでは、神殿の炎上と、ダビデ王家の滅亡は語られていません。

 

 2つ目のこととして、エルサレムの人々は、その時、主の言葉にすなおに従うべきでしたが、祭儀を行う神殿とダビデ王家の存続を、神の民であるイスラエルの人々の命よりも大切にしたということです。 その思いは、彼らにとって最優先でしたが、神さまの思いからはかけ離れた思いであり、被造物である人間の思い上がりでした。 そのために、歴史上の事実として、エルサレムが陥落した後、神殿が燃やされ、ダビデ王家が絶やされることになったのです。 神さまの言葉よりも、人間の思いを優先させた時の結果は、不幸な結果となってしまうことを憶えなければならないでしょう。

 

 神さまから告げられた言葉に従わなかったエルサレムの人々は、神さまからの災いを受けることになりますが、預言者エレミヤと、宦官エベド・メレクはその命を長らえることになります。 エベド・メレクの命が助けられ生き残ることは、39章18節に、主から告げられた言葉として書き記されています。 エレミヤについては、その命が終わる場面は書かれていませんが、彼はエルサレムからエジプトに逃れてそこに寄留しようとした人々にむりやり同行させられ、エジプトへと連れて行かれます。エジプトに至るまでエレミヤの命は長らえましたが、主は、エルサレムの人々に、バビロンではなく、エジプトに逃れたら、剣(つるぎ)、飢饉、疫病(えきびょう)によってその場所で死ぬことになると告げていました。 事実、エジプトに逃げて寄留した人々の最後はそのようになりますが、エレミヤも強制さたとはいえ、エジプトに移ったことで、最後は殺されてしまったと考えられています。 主からエレミヤを通して語られたことは、すべて実現されたのです。

 

 さて、使徒言行録のパウロの話しに移ります。12節を見ると、パウロの命をなんとしても奪おうと考えていたユダヤ人たちは、パウロを暗殺することを計画します。 祭司長や長老たちからの要請で再び最高法院を開いて、パウロを呼び出してもらいたいと千人隊長に依頼し、パウロが移送されるその時を狙って、パウロを暗殺しようと考えました。 その計画を立てた人数は、40人以上であったと、13節にあります。しかし、暗殺に加わる者が40人以上いたとしても、パウロを護衛して、最高法院に移る間、暗殺者たちがパウロを襲えば、彼らもローマ兵によって殺されるでしょうから、自らの命と引き換えてでもパウロを生かしておかないようにするという、大変強い意志を持って、ユダヤ人たちは計画を進めようとしています。 すると、おそらくは、その陰謀計画を話し合っていた場所にいた、パウロの甥(おい)のユダヤ人がその話しを聞いて、百人隊長に知らせました。

 

 ここで私たちは、ユダヤ人として育てられ、教育を受けていたパウロが、キリスト者として回心した後、彼の家族、親戚はどうなっていたか、考えて見る必要があります。 パウロはフィリピの信徒への手紙3章8節で、

 「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」と言っています。 すべてとは、パウロが積み重ねてきたユダヤ教信徒としての経歴、地位、信頼だけでなく、ユダヤ人であるはずの彼の家族、親戚との関係のことも含まれていたはずです。

 キリキア州でローマ市民であったというパウロの父親は、おそらく金持ちだったでしょう。しかし、ユダヤ教から回心したパウロとの関係は、もはや失われていたでしょう。 それに対し、百人隊長に暗殺の計画を伝えた若者の母親。パウロの姉妹は、パウロに対する愛情を持ち続けていて、その気持ちはおのずから息子にも伝わっていたのではないでしょうか。 パウロの姉妹は、恐らくその時、タルソスにいたのでしょうが、息子は、パウロの場合と同じように、ユダヤ教の教育を受けるためにエルサレムに来ていたと考えられます。 そして、パウロの甥が、暗殺計画の場所にいたことは、おそらく、パウロの家族、親戚はパウロがキリストを信じる者となったことにたいして、激しく反対していたからではないでしょうか。しかし、いざ、自分の叔父が暗殺される計画を聞いて、パウロの命が助かるように行動したのでしょう。しかし、パウロの甥が置かれていた状況については、資料がありませんので、想像でしかありません。

 

 一方、ローマ兵に保護されたパウロは、ローマ市民として、アントニア城砦(じょうさい)で丁重(ていちょう)な取扱いのもとに監禁されていました。彼は訪問者である甥との面会を許され、百人隊長は、頼むことをすぐにしてくれました。だから、甥が城砦にきて、陰謀のことを知らせると、すぐに百人隊長のひとりに、その若者を司令官のところに連れて行き、暗殺計画について、じきじきに聞いてもらうように頼みました。 千人隊長は親切に若者の話しを聞き、彼が知らせたいと思っていることを真剣に取り上げ、ただちに打つべき手を決めて、若者には、陰謀について密告したことは、誰にも漏らしてはならないと口止めをして、帰らせました。

 

 この時点で、もはや、パウロの生命は、エルサレムでは安全ではなくなっていました。一方、千人隊長としては、ローマ市民の暗殺の責任をかぶるようなことにはなりたくないと考えました。 また、パウロを監禁し続けることで、避けることができない他の危険に、身をさらすようなこともしたくありませんでした。 パウロはただちに、強力な護衛をつけて、カイサリアに護送されることになります。そうなれば、彼の身辺はエルサレムよりも安全になり、その保護は、ユダヤ総督の直接の責任になるからです。そこで、千人隊長は、再び百人隊長を呼び、歩兵、騎兵と、軽装備の部隊からなる、強力な護送部隊を用意し、パウロを連れて、夜間カイサリアに向けて出発するように命じました。

 エルサレムからカイサリアまで、100km弱の距離がありました。そのため、千人隊長は、パウロが無事に総督の監禁を受けるようになったことを知るまで、安心できませんでした。

 

 26節から30節に、千人隊長から総督フェリクスに宛てて書かれた手紙の内容が書かれています。使徒言行録を書いたルカがどのようにしてその内容を知ることができるかわかりませんが、おそらくその手紙の内容はこういうものではなかったかという主旨で書かれているのでしょう。

 26節で初めて、千人隊長の名前があげられています。彼は明らかにギリシア生まれでした。彼の名の「リシア」は、ローマ市民権を取った時、家の名前となりました。また、市民権を得た時は、おそらく、クラウディウス帝の治世であったので、クラウディウスという族名を受けたのでしょう。

 彼の手紙は、パウロのことで起きた神殿の騒動にはじまって、パウロ暗殺の陰謀をリシアが探知するに至るまでのできごとを、要約して書いています。パウロがローマ市民権を持っていることを知ったのは、暴動から保護した時であることが書かれていますが、千人隊長がむちを打てと命じたことは省略されています。 次に彼をユダヤ議会の前に引き出したが、何の収穫もなかったことを報告し、それによって、リシアは、この争いはローマ法の審理の対象とはならず、ユダヤ人の神学解釈上の争いであるとの結論に達したに過ぎない、と述べています。 手紙の最後に、リシアはフェリクスに、パウロ暗殺の陰謀のことと、その結果事件が総督の法廷で処理されるように、彼をカイサリアに送る決意をしたことが書かれています。 

 軍の護送部隊は、おそらく午後9時頃出発し、翌朝アンティパトリスに着きました。そこは、エルサレムから56kmほど離れた場所です。 暗殺を企てた者たちとの距離は、はるか遠くに離れましたので、歩兵部隊はそこで引き返し、騎兵隊がカイサリアまでの残りをパウロに付き添って行くことになりました。 騎兵隊はパウロを連れてカイサリアに到着し、パウロはフェリクスに引き渡されて、監禁されることになりました。

 

 フェリクスは手紙を読み終えると、パウロにどの州の者かを尋ねました。パウロの出身地によっては、フェリクスではなく、その州の統治者に相談することが正しい手続きだったからです。 しかし、彼は事実ローマの州の者でしたので、訴える者がきた時に、パウロの事件を取り調べると言いました。

 カイサリアにいた総督フェリクス。彼について少し話しますと、彼は奴隷の出身でした。ところが、彼が前例のない出世をしたのは、兄弟のペラがクラウディオス帝の宮廷で権勢を誇っていたおかげでした。ペラはクラウディオスの母アントニアに解放されて自由民になったと思われます。

 フェリクスが総督だった在任期間中、州全体に反乱がふえました。彼は無慈悲な態度で反乱を鎮圧したので、穏健なユダヤ人の多くを離反させ、さらに多くの反乱を生じさせる結果を生んでいます。一方、彼が次々と結婚した3人の妻は、みな王女でした。最初の妻はアントニウスとクレオパトラの孫娘であり、三番目の妻はアグリッパ一世の娘ドルシラでした。

 

 さて、私たちは、パウロに起きた出来事から何を聴くべきでしょうか。

 パウロを暗殺しようと企んだユダヤ人たちは、地中海各地で増えつつあったキリスト者のグループ。彼らは、教会に対するねたみをもっていたのではないしょうか。地中海沿岸の各都市では、ユダヤ人の倫理的な振る舞いからユダヤ教の神に関心を持ち、信仰を持ちたいと願う人々がいました。ところが、ユダヤ教に改宗するためには非常に厳しい規則があり、男性は割礼の問題を解決しなければなりませんでした。 それに対し、ユダヤ教と同じ聖書を持ち、同じ神さまを信じているキリスト者たちは、異邦人に対して、ユダヤ人に対するような厳しい規則を適用せず、ただ、倫理的に正しい生活を送ることだけを求め、罪を悔い改めてバプテスマを受けることで、魂が救われると教えていましたので、異邦人にとって改宗するための敷居は非常に低いものでした。 それで、多くの異邦人がキリスト者となり、また増えつつありましたので、エルサレムにいたユダヤ人たちの中で、急進的な人々が、ねたみと恐れをいだき、中心的な人物のパウロを暗殺しようと考えたのでしょう。 しかし、その結果は、エレミヤが生きた時代と同じように、神さまから目に見える形で与えられていた律法を、形式的にまもることと、エルサレム神殿での祭儀に固執していたユダヤ人たちから神殿とエルサレムが奪われることになります。 そして、心から主イエスを、救い主として信じ、信仰を与えられたキリスト者がその数を増やしていくことになりました。 パウロが経験した出来事からも、神さまをどのように信仰することが大切なのかを私たちは改めて知らなければなりません。

 

 毎週日曜日、礼拝堂で行われる礼拝が決して形だけのものとならないように。礼拝堂でも、家庭でも神さまに礼拝を献げるとき、心から神さまに向かって賛美し、礼拝する。神さまのみ言葉を心から受け止めて、お応えする。これをいつの時も、忘れることなく歩んでいきましょう。 そうすることで、この世におけるさまざまな困難から逃れる道を神さまは必ず私たちのために備えてくださいます。 そしてなにより、すでに2000年の昔、主イエス・キリストによる十字架の贖いによって、罪の赦しと永遠の生命の恵みをいただいています。 そのことに感謝して、今週も歩んでいきたいと願います。