レビ記 20章22節~26節

 使徒言行録 10章1節~33節

 

 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。

 

 異邦人に対する伝道というと、わたしたちはすぐに使徒パウロを思い浮かべます。しかし、使徒言行録の前半に記されている使徒ペトロ。彼もまたユダヤ人として成長し、主イエスと出会いイエスさまが復活して天に昇られた後、福音を伝えるために大きな変化を経なければなりませんでした。

 主に異邦人に伝道をしたパウロは、ダマスコに向かう途上で、復活されたイエスさまと出会い、三日の間目が見えなかった出来事を通して、人生180度の回心を行いました。

 それに対し、使徒ペトロは、ヤッファの町で見た幻を通し、彼の生き方を変えることになる大きな経験をします。

 その出来事がどういうものだったのかを、今日は見ていきたいと思います。

 使徒言行録10章の初め。カイサリアという町にコルネリウスというローマの百人隊長がいました。彼はローマから派遣されてその町に駐屯していた兵隊たちを統率する隊長でした。

 百人隊長とは、文字通り百人の兵隊を率いて戦う長です。ローマ軍の中でも軍隊を支える要の立場にある階級でした。また、彼は2節にあるように「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」人でした。

 当時のローマ帝国では、正式なユダヤ教への改宗者になるために、割礼を受け、エルサレム神殿で犠牲の献げ物を献げなくても、各地にあったユダヤ教の会堂で礼拝に参加し、祈りを献げてた人。また、倫理的なユダヤ人の生活にならって暮らしていた、「信仰心があつい」人が多くいたことが知られています。

 各地にあったユダヤ教の会堂では、すでにギリシア語に翻訳されていた旧約聖書が朗読されていました。それで、聖書の言葉に容易に接することができました。

 コルネリウスもそのような人でした。

 3節で、ある日の午後3時ごろとあります。彼が日課として神さまに祈りを献げていた時に、神の天使が入ってきて「コルネリウス」と呼び掛けるのを、幻ではっきりと見ました。

 彼は初めて見る天使の姿に怖くなりましたが、神さまを畏れる人でしたから、すぐに「主よ、何でしょうか」と、天使に聞きました。

 すると、天使は彼に、ヤッファにいるペトロを呼びに行かせ、コルネリウスのところに招くようにと命じました。彼は天使の言葉を聞いてすぐに3人の人をペトロのところへと遣わしたのです。

 

 当時「信仰心があつい」異邦人がユダヤ人を訪ねることは比較的容易でしたが、穏健な正統派のユダヤ人でさえ、ユダヤ人が異邦人の住居に立ち入ることはよろこばれませんでした。なぜなら、異邦人の住居に立ち入ることで、汚れを受けることになるかもしれなかったからです。

 主イエスに従ったペトロもまた、同じ考えを持っていました。ペトロがそうであったということは、9節から16節で知ることができます。

 ペトロが昼の十二時ごろ祈っていたときに見た幻で、律法で汚れたものとされていた動物が大きな布のような物に入れられて天から地上に下りてきました。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と声を掛けられます。しかしペトロは、それは出来ませんと答えてました。

 ペトロに掛けられた声。これが誰の声であったのかは、聖書には書いていません。しかし、ペトロが「主よ、とんでもないことです」と答えていることから、イエスさまが声を掛けられたのではないでしょうか。その問答が三度繰り返された後、入れ物は急に天に引き上げられました。

 

 ペトロが見た幻と、呼び掛けられた声。ペトロがこれはいったいどういうことであろうかと考えなければなりませんでした。

 すると、そこへコルネリウスから遣わされた三人の人がシモンの家を探し当て、門口までやってきました。その時ペトロはまだ幻の意味について考え込んでいましたが、聖霊がペトロに告げました。

 「三人の者があなたを探しに来ている。

 立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」

 聖霊がペトロに告げた言葉に、「わたしが…よこしたのだ。」とあります。それで彼は、主イエスが語られていると、理解したでしょう。

 ペトロは立って下に行き、三人の者と面会しました。そして、「神を畏れる人」コルネリウスが自分を呼ぶためにこの者たちを遣わしたことを知ります。その時ペトロは幻で見た汚れたものを食べなさいと言われたこと。主から遣いの者と一緒に出発しなさいと言われたことの意味を理解しました。

 

 23節でペトロは何人かの兄弟と一緒に出かけたとあります。11章12節で、その人数が6人だったことがわかります。コルネリウスが遣わした3人とペトロそして6人の兄弟合わせて10人の人がカイサリアに行くためには、二日を必要としました。コルネリウスの家にペトロが着くと、丁重な出迎えを受けて、ローマ兵のコルネリウスがユダヤ人のペトロの足もとにひれ伏して拝みました。

 ペトロは今まで、このような出迎えを受けたことはありませんでした。彼は驚いたのと同時に、拝むべき方は人ではなく神さまだけであると信じていましたので、コルネリウスを起こして、自分もただの人間であると話しました。

 28節から29節でペトロは、自分が見た幻とその意味をどのように理解したかをコルネリウスに話し、その上で、自分が招かれた理由を尋ねました。

 すると、コルネリウスも幻で見た天使がペトロを招くように命じたことを話しました。今ここに集まっている彼と親類や親しい友人たちは皆、主がペトロに命じられたことを残らず聞こうとして、神の前にいることを話しました。

 それを聞いたペトロは、主イエスがコルネリウスたちに福音を語りなさいと命じておられることを悟りました。

 

 さて、今日の箇所で、ペトロが幻で見た清くないもの、汚れたものを屠って食べることを律法が禁じていた理由はなぜでしょうか。

 それらの動物が毒を持っているからとか、美味しくないからという理由からではありません。食べる物に区別をつけなさいという戒めは、レビ記20章22節から26節にあります。

 この箇所を読むと、食べ物を区別した理由は、シナイの荒れ野を40年移動し、約束の土地カナンに入ったイスラエルの民が、その国の風習に従わないためであることが書かれています。

 以前からカナンの地に住んでいる人々は、天地を創られた真の神さまではないものを信じ、偶像礼拝をしていました。

 その人々とイスラエルの民が同じ物を食べるということは、親しい交流を持つということです。その関係性はやがて、イスラエルの民が信じている厳しい掟を守るように命じている神さまから離れて、カナンの地にある偶像に対する信仰へと変わってしまう恐れがあります。

 そこで、神さまはイスラエルの民に清くないもの、汚れたものを屠って食べてはならないという戒めを与えられました。

 

 イスラエルの民にとって、入植した土地の人々が食べていたものを食べてはいけないと言うのは、厳しいことだと感じたのではないでしょうか。しかし、神さまからご覧になれば、イスラエルの民が成長するまで守るために与えた掟でした。

 やがて時が満ちて、まことの救い主、イエスさまが来られました。主なる神さまが私たちと共にいてくださり、守ってくださる。

 いつも主イエスを通して与えられた福音の言葉を聞いて、それに従うことになった時代、神さまを信じることで救われる時代は、もはや口から入れる食べ物に区別を設ける必要はなくなりました。

 イエスさま御自身が伝道をされた時、口から入る者がその人を汚すのではなく、人の口から出るものがその人を汚すと言われました。神さまがどの食べ物も違いはないと宣言されたら、もはやその区別はなくなります。

 ペトロが見た幻はそれを彼に教えるために主が準備された幻でした。

 

 では、このことから私たちは何を学ぶべきでしょうか?

 この世において、日本において、神さまを知らない人はたくさんいます。たくさんと言うよりも、知らない人の方が圧倒的多数というのが、日本の現状です。そういう状況にあって、日本人が過去から伝えてきた文化、風習、伝統を私たちが否定してしまったら、私たちと大勢の人々との関係は切れてしまいます。

 日本古来からあるもの、日本人の生活習慣に深く溶け込んでいるものをすべて否定するのではなく、ただ私たちを神さまから引き離す恐れのあるものをさけながら、大勢の人々に福音を語っていくこと。そのことがわたしたちに求められていることではないでしょうか。

 

 コロナ禍の中にあって、人と人との出会いの場が制限されてた状況にあります。しかし、私たちは他人との関係を完全に断ちきって生活し続けることはできません。このような状況の中にあっても、出会う人々との交わり、関係の中で、福音を伝えていくこと。そのことが今、わたしたちに求められていることです。

 

 イエスさまがお生まれになった時、野宿をしていた羊飼いたちが、天使から知らせを受けて、救い主を拝みに来ました。当時イスラエルでは、羊飼いたちは社会の中で底辺と言うべき立場に置かれていた人々でした。ユダヤ教の視点で見ても、あまり交わりを持つことが無い、交わりを持たない人々でした。そんな羊飼いたちが救い主を探して尋ねてきた時、イエスさまが立派な宮殿や、温かい家の中で寝ていたら、羊飼いたちは救い主を礼拝することはできません。ところが、イエスさまは、羊飼いたちが日頃すぐそばにある飼い葉桶という場所に、おられました。

 その状況が教えていることは、救い主が羊飼いという低いところまで下りてきてくださったということです。天地を創られた神さまが私たちすべての人のために。だれでも救いに与ることができるようにと、配慮されて行われたことでした。

 その救い主が、十字架の死を経て復活し、天に昇られた今、わたしたちがなすべきこと。それはイエスさまがなされたように、すべての人のところに出ていって、あるいはすべての人との出会いを通して福音を知らせなければなりません。そのことがわたしたちに求められています。

 

 主イエスがこの私を豊かに用いてくださるように、心から願い、祈りつつ今週も歩みを進めてまいりたいと願います。