イザヤ書7章 13節、14節

 ヨハネによる福音書 1章1節~18節

 

 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。

 

 毎年アドベントの時に、語られる救い主、メシアに関する預言はどのような時代に、どのような背景で語られているかを、皆さんは注意して聞かれたことはあるでしょうか?

 

 今を生きるわたしたちにとってクリスマスとは、とりわけ、教会とは直接関係のない人々にとっては、親しい人と共に過ごし、プレゼントを贈り合う日ぐらいにしか感じていないでしょう。 しかし、教会に集う私たちにとって、クリスマスは、神さまからいただいた贈り物。他に代えることは絶対にできない唯一のお方。主イエス・キリストがお生まれになったその日をお祝いする時です。 それだけでなく、クリスマスの時に子どもたちが演じる降誕劇では、救い主のお誕生は何百年もの間、待ち続けられていましたと、語られます。

 

 多くの人々から待ち続けられていた救い主。

 

 ところが、救い主がこの世に与えられるという、インマヌエル預言がイザヤによって語られた時代は、イスラエルにとって。北イスラエル王国にとってとてもひどい時代でした。

 旧約聖書、列王記上16章29節以下に、イスラエルの王アハブの時代の出来事が書かれています。アハブ王は、自分の親や祖父の時代から続けていた、偶像礼拝を続けた王です。そればかりでなく、異邦人のシドン人、エトバアル王の娘イゼベルを妻に迎え、妻と共に、時には、妻の方が激しく異教の神々を拝んで、イスラエルの国内にいた預言者たちを迫害し、多くの預言者を殺すというひどいことをしていました。

 列王記上18章では、その時代に、預言者エリヤが異教の神バアルの400人の預言者たちと対決し、勝利する出来事が書かれています。エリヤはまことの神さまが、バアルの神々よりも強く、唯一の神さまであることを、アハズ王の前で示しますが、それでも、アハズは正しい信仰に戻ろうとはしませんでした。

 そんな時代に、イザヤは救い主に関する預言を告げました。

 イザヤ書7章10節から、12節でイザヤが告げた主の言葉に対し、信じようとはせず、自分の考えだけで行動するアハズが、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」と答えました。

 このアハズの言葉は、主なる神さまを恐れて、主を試しません、と言っているのではなく、イザヤが告げる神など試すことは必要ない、という不信仰の言葉でイザヤに答えています。

 アハズの不信仰を見とがめた神さまは、イザヤを通して、こう言われました。

 「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。

 この主の言葉から、アハズだけでなく、イスラエルの民も不信仰であることが、ハッキリ示されています。

 そこで、神さまは、イザヤを通して、イスラエルの人々に向けて、良く知られているインマルエル預言を告げられました。

 「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。

 「インマヌエル」とは、マタイによる福音書1章23節で説明されているように、「神は我々と共におられる」という意味です。

  旧約時代に生きた人々に対して、神さまが共におられると告げることは、「主の日」が来るということ。旧約で「主の日」とは、この世の終わりに神さまこの世界を裁かれる時を指しています。アハズ王とその民、北イスラエルの人々に対して神さまが直接くだされた罰は、北の大国アッシリアが攻め込んで、人々を移住させられた人々が、二度と元の国に戻ってくることができず、住んでいた地方で、偶像礼拝が盛んになるということでした。

 

 イザヤが預言したことは、数百年経った時代。実現することになりました。そのことを、ヨハネによる福音書は1章の始めに、天地を創られた神さまご自身と共にあった言(ことば)が、この世に来た。言(ことば)が自分の民のところに来たという表現で、主イエスの誕生を伝えています。

 ヨハネによる福音書1章1節から3節の言葉。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 この言は、初めに神と共にあった。

 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 言(ことば)が神さまと共にあり、言(ことば)が神さまであったという1節の言葉は、神さまが何人もおられることを言っているのではなく、神さまは唯一、お一人だけれども、言(ことば)と言われている、主イエスが神さまと共にあった。存在していたことを言い表しています。

 私たちの神さまを、父子聖霊なる三位一体の神さまというように言うことがありますが、三位一体という言葉が聖書に書かれていなくても、それを示す言葉は、聖書にしっかりと書き留められているのです。

 1節に書かれている言(ことば)は、4節で「人間を照らす光」であると、説明され、その光である言(ことば)が、この世に来たことが、9節から11節に書かれています。 1節から11節の言葉を通して語られていることは、神さまが人としてこの世に来てくださったことを、福音書記者ヨハネが、このような表現で表しました。

 

 では、なぜ、神さまが人となってこの世に来なければならなかったのでしょうか? 人間が行う悪いこと、悪がこの世にはびこり続けているなら、人間を滅ぼそうとはされなかったのか? それは、大洪水を起こし、ノアの家族以外の人間を地上から拭い去られた神さまご自身が、ノアに約束されたように、神さまの力によって、ただ、人間を滅ぼすことを二度としないと約束されていたからでした。

 また、日本の神道の祭儀で行われているように、罪や汚れを祓(はら)い落とすように、神さまが私たちの罪を取り除こうとはされなかったのか?

 それは、使徒パウロが、ローマの信徒への手紙2章で説明しています。神さまは、御自身の力で人間の罪を一方的に取り除こうとはされず、神さまの「豊かな慈愛と寛容と忍耐」をもって、「神さまの憐れみ」により「悔い改めに導こうと」されていると。

 しかし、パウロは神さまの忍耐に対し、人は「かたくなで心を改めようとはぜず、神の怒りを自分のために蓄えている」と言い、人間自らの力では、罪の縄目から解き放たれることができないと証言しています。

 そうであるなら、どうすれば、その状態から救われるのでしょうか?

 その答えは、ハイデルベルク信仰問答の問15の答えにあります。

 

 「まことの、ただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわち、まことの神でもあられるお方です。

 

 人間と神さまとの間にある隔たり。その距離は、まことに正しく聖なる方と、生まれたままでは、神さまを知らず、神さまに従う生き方をすることができない、罪の奴隷である人間の距離であり、あまりにも遠く離れています。

 そのため、その間を取り持つ、仲介人。仲立ちをする方が必要となります。

 この世の中で、仲介人、仲介者と呼ばれる人は、二人の人の間を取り持つために、互いのことを良く知っている人が選ばれます。どちらか片方だけを良く知っているだけでは、片方の見方しかできず、不公平な仲介者になってしまいます。

 そこで、まことに聖なる方である神さまと人間との間を取り持つ仲介者。救い主は、人でありながら、「聖であり、罪なく、汚れない」人でなければなりません。そのような人であってはじめて、神さまと人との仲を取り持つことができるようになります。

 ところが、人の中からそのような人物を出そうとしても、生まれたままでは神さまのことを知らないのですから、だれも、仲介者として立つことができません。それで、神さまの方からわたしたちに、神さまのことを100%知っておられ、人間として生まれた方。 神さまの霊が人に宿り、この世に生まれた、完全な人であり、完全な神さまであるイエスさまが遣わされることになりました。

 

 では、そのイエスさまは、どのようにして、救い主としての働きをしてくださるのでしょうか? 「十字架の死による贖い」ということは、すぐに思い浮かびますが、人であり神さまである方がどのように働いてくださるのか。

 そのことについて、ハイデルベルクの問17が答えを教えています。救い主が、人であると同時に神さまである理由として、

 「その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、わたしたちのために義と命とを獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくださるためです。

と答えています。

 このことは、コリントの信徒への手紙二 5章21節に書かれていますが、私たちすべての人間が神さまから受け取らなければならない神さまの怒りを、人間として、神性の力によって受けとめて耐えることができた方。イエスさまが十字架に架けられた時、人として架けられ、罪の重荷を神性の力によって耐え続けてくださった。それは、私たち人間のだれもができることではありませんでした。

 そのことにより、神さまは、イエスさまを完全に義なる方であると認められ、その方。イエスさまが、選ばれる人に与えることができるようにされたのです。

 イエスさまは、十字架の死の後復活され、天に昇り、栄光を受けられたと聖書にあります。ヘブル人への手紙2章9節に、イエスさまが天に昇り栄光を受けられたことが書かれていますが、それは神さまの恵みによって、すべての人のために死なれたからだと示されています。

 

 主イエスが私たちのところに、人としてお生まれになられた。それは、私たちの罪をすべて引き受け、人として神さまの怒りをすべて受けとめて耐え、義とされ、命を得るためでした。 人間の人生において、誕生と死はかけ離れたもののように思えます。ところが、イエスさまの生涯において、誕生とその死は密接に繋がり、私たちの罪を赦すための、神さまのご計画でした。 わたしたちが、この世で罪を犯し、その罪を赦してもらうために求める救い主は、この方しかおられません。なぜなら、他のどんな人であっても、自らの力で神さまの前で義とはされないからです。

 

 救い主のお誕生を心待ちにするアドベントの時。教会によっては、4本あるクランツのロウソクのうち、3本を紫色のロウソクを使うところがあります。それは、主イエスのお誕生を待ち望むと同時に、私たちの罪を見つめ直す。私たちの罪を贖うためにこの世に遣わされた方のことを思い起こすために、紫の色が使われているからです。 人の誕生は、だれでも、とても嬉しく、喜ばしいものです。しかし、主イエス・キリストにあっては、私たちの罪の赦しのための贖いが密接につながっていることを忘れてはなりません。 そのことがあるからこそ、私たちは、求めるべき救い主として、主イエス・キリストのお誕生を心待ちにしています。

 

 コロナ禍の中にあっても、光を放ち、わたしたちに希望を与えてくださる主イエス・キリストのお誕生の時を、心待ちにしつつ、今週も歩みを進めてまいりたいと願います。