聖書 旧約: ホセア書 6章1節~3節

    新約: ルカによる福音書 24章36節~53節

 

 みなさん、おはようございます。

 

 わたしたちが信じ、信頼している神さまはどういう方なのか。聖書は、わたしたちにそのことを伝えています。

 神さまがどういう方であるかを、一番具体的に話し、御自身で示されたのは、イエスさまです。多くの預言者たちもまた、神さまがなされた業。そして、これからなされようとしている救いのみ業について、預言をしています。

 

 今日読んだ、ホセア書。ホセアは、北イスラエル王国で活躍した預言者でした。彼は、北イスラエルが、アッシリアの脅威にさらされ、まもなく国が滅ぶという時代に生きて、主の言葉を人々に伝えました。

 ホセア書はなかなか難しいと言われていますが、今日読んだ6章1節から3節と、直前の5章8節から15節は、地上で起こす戦争の罪と罰、そして、主による裁きと救いが預言されています。

 5章13節「エフライムが自分の病を見 ユダが自分のただれを見たとき エフライムはアッシリアに行き ユダは大王に使者を送った。しかし、彼はお前たちをいやしえず ただれを取り去ることもできない。」

 この節で、エフライムは、北イスラエル王国。ユダは南ユダ王国、大王はエジプトを表しています。この言葉は、北イスラエル王国も南ユダ王国も、地上にある権威。アッシリアやエジプトの王たちに、自分たちの国の継続を願い出ることが愚かなことだと教えています。

 北王国も南王国も、神さまが地上から選び出し、神の民とされた人々の国でした。その人々は、主なる神さまに、神さまだけに依り頼んで、救いを求めなければいけないのに、そうしようとはしない。そのことをホセアは主の言葉として非難しています。

 その結果、次の14節にあるように、北イスラエル王国は、アッシリアによって、南ユダ王国は、バビロニアによって滅ぼされてしまいました。

 主の裁きは、主がこの世から選び出した者であっても、主を信じてその身を任せるという信仰を失ってしまったら、その上に臨むということです。

 

 不信仰な者が、裁かれると聞くと、とても恐ろしく感じます。しかし、その裁きは、神さまが選び出された者を愛しているゆえに、厳しく罰せられるということなのです。そして、その裁きはいつまでも続くわけではありません。6章1節で、「主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」とあるように、メシアが来られる以前、主の民に対する神さまの裁きは、激しいものであっても、主が救いをもたらしてくださるということが、預言されました。

 

 主の裁きと救いは合わせて考えなければなりません。そうしなければ、主イエスによる救いのみ業がどれほど素晴らしい恵みであるかということを感じとることができないからです。

 アモスは続けます「二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」

 三日目に立ち上がらせてくださるという言葉には、主イエスの復活が暗示されています。

 3節でアモスは、「主を知ろう」と呼び掛けています。

また、箴言9章10節に「主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。」とあります。

 「主を知る」ことは、知識として理解することではありません。ここで使われている「知る」とは、「関係を結ぶこと」。わたしたちが神さまとの関係を結ぶ。神さまが私たちを愛してくださるから、わたしたちは神さまを信じて、信頼してその愛に生きるということを、「知る」という言葉でアモスは語っています。

 主なる神さまを信じ、礼拝することは、神さまの愛を目一杯いただいて、神さまの恵みを充分に受けとることです。そして、そのように待ち望む人々に神さまは、豊かな恵みを与えてくださいます。

 

 旧約の預言の言葉は、神さまの救いをおぼろげながらに、そして、罪からの救いがメシアによってもたらされることを、まだ見ぬ形でしか表していません。しかしそれは、主イエスが十字架の死の後、復活されたことで、私たちに目に見える形でもたらされました。

 

 ルカによる福音書24章36節以下。この場面は、エルサレムにいた弟子たちのところに復活されたイエスさまが現れた時のことが書かれています。イエスさまが、弟子たちのところに姿を現しても、まだ信じることができず、亡霊を見るかのように弟子たちは恐れていました。それでイエスさまは、御自身の体を見せて、また、焼いた魚を食べて、亡霊ではないことを示しました。復活されたイエスさまは、亡霊のような存在ではない。実際に触れることができる、食べ物を食べることができる体を持った方であることを、弟子たちに示されたのです。

 

 イエスさまが、復活された御自身の体を弟子たちに見せられたことは、この世での死を迎えた後、弟子たちもイエスさまと同じように復活することができることを信じ、確信させるためでした。イエスさまは、弟子たちに復活のことを悟らせるために、45節で「彼らの心の目を開かれた」とあります。

 わたしたちが、イエスさまの復活の出来事を信じるためには、神さまによって「心の目」が開かれなければなりません。聖霊がわたしたちに働いてくださることによって、はじめてわたしたちは、イエスさまの復活の出来事が真実であるということ。そして、わたしたちがそのことを通して信仰を与えられていることを悟ることができるようになります。

 

 イエスさまは、弟子たちの心の目を開かれて、弟子たちの前に現れ、復活された御自身を現された目的を伝えました。46節から48節「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」

 イエスさまが弟子たちの前に現れたのは、弟子たちがイエスさまによってもたらされた福音を、あらゆる国の人々に宣べ伝える証人となるためでした。

 弟子たちはそのことのためにこの世から選び出され、用いられる。そしてその力は、父なる神さまが約束されて、イエスさまから弟子たちに送る聖霊によると、49節でイエスさまは語られました。

 ルカによる福音書に記された出来事は、弟子たちに起きた出来事です。しかし、今を生きるわたしたちにも、神さまは聖霊を送られています。そして、その聖霊は、わたしたちを復活された主イエスの証人としてこの世で生きて、人々に福音を伝える役目を与えてくださいます。

 福音を伝えると言うことは、福音の言葉を語るだけでなく、神さまの愛に、福音によって生きる、信仰生活そのものを通して、イエスさまを伝える。言い替えると、神さまを礼拝し、祈り、賛美して、喜びに満ちあふれた生活をおくることそのものが、主イエスを証しすることなのです。

 今週も、イエスさまによって与えられた神さまの愛に感謝して過ごす一週間を送りたいと願います。

〇お祈り

 天の父なる神さま、今週もみ言葉をいただき、ありがとうございます。イエスさまは、御自身の死と復活をとおして、弟子たちにまことの福音を、愛を示してくださいました。

 この世がどのような不安に襲われたとしても、主イエスによってもたらされた愛、恵みは変わることはありません。主イエスから伝えられた御言葉をしっかりと心に留めて、今週も力強く歩んで行くことができますように願います。

 このお祈りを主イエス・キリストの尊き御名によって御前にお献げいたします。 アーメン。