聖書 旧約: エゼキエル書 36章24節~28節

新約: ヨハネによる福音書 15章18節~27節

 

 みなさん、おはようございます。

 

 ヨハネによる福音書15章18節から27節は、イエスさまが、12人の弟子たちと共に、最後の食事をされた時、14章から16章に続く、長い説教の一部です。

 わたしたちが聖書を読む時、誰がどんな場面で、どういう人々に語っているかということを、最初に思い浮かべて読んでいかなければなりません。そうしないと、聖書の言葉を部分的に切り取って、自分勝手な解釈で、読んでしまう恐れがあるからです。

 

 わたしたちが読んでいる新共同訳聖書は、原典にはない小見出しが付いています。今日の箇所には「迫害の予告」とあります。これから十字架に架けられ、死んで葬られ、復活し、天に昇って弟子たちと別れるイエスさまが、残される弟子たちに、今後の迫害について残した言葉が書かれているのです。

 

 教会では、「聖別」、あるいは「聖なる者となる」という言葉が話されることがあります。これは、神さまによって、わたしたち人間が選び出され、罪がある者であっても、その罪を赦される。そして、神さまのためにこの世から特別な者として、取り置かれることを言います。「聖別」とは、この世のものとは「区別される」という意味にとってよいでしょう。

 そのことが、ヨハネの15章18節、19節で、語られています。神さまが弟子たちを、そして、私たちをこの世から選び出し、この世のものとは区別した存在としてくださる。だから、この世は、異質なものを憎むのだと、イエスさまは弟子たちに話されました。

 

 古代ローマ帝国で、キリスト教が公認されたのは、西暦313年のことでした。イエスさまが復活されてから、280年ほどの間、キリスト教は迫害を受け続けました。

 日本でのキリスト教の禁教を考えて見ると、江戸時代は265年でした。それ以前のキリスト教禁令から考えると、日本も古代ローマと同じぐらい長い間、キリスト教が迫害を受け、しかもローマ以上に、信仰することが許されない時代が続きました。

 

 イエスさまの弟子たちも、福音書を書き、また読み始めた人々も、日本におけるキリスト教禁令時代に生きた人々も、イエスさまが言われた、迫害の時を過ごしたのです。

 

 人が人を憎むのには、必ずその理由があります。他人が自分に対して不利益な行いをしたら、腹が立って、相手に怒りを感じるでしょう。そして、そのことが続くなら、やがて相手を憎むようになります。そのように「憎しみ」には理由がありますが、キリスト教の迫害は、21節でイエスさまが言われているように、「わたしの名のゆえに」迫害される。憎まれるのだと言われています。そして「イエスさまの名のゆえに」憎む理由は、この世界を創られた、創造主である神さまを、天の父なる神さまを知らないからだ、とイエスさまは言われています。

 その言葉の意味は、天の父なる神さまとの関係が断たれているということ。「知らない」ということは「関係が断たれている」ということです。迫害をする者は、神さまの思いではなく、人間自らの、勝手な思いで生きようとします。人間が、そのように生きようとすると、イエスさまにすべてを献げて従おうとする人々とは、考え方が異なり、相容(あいい)れない関係となるので、彼らは、弟子たちや、クリスチャンたちとの関係性を持つことができず、迫害に走るのです。

 

 では、クリスチャンを迫害する人々を、神さまはどのように、ご覧になっておられるのでしょうか。そのことが、22節から25節に書かれています。イエスさまがこの世に来られて、人々に福音を語り、神さまの業を示したにもかかわらず、イエスさまを信じる者を迫害する。

 そのことは、神さまのことを知らされているにもかかわらず、その言葉に耳を貸さず、自分の思いで行動することであって、神さまに依り頼まないことですから、その人には罪があると、イエスさまは言われています。

 

 身近なことでたとえると、道路に設置されている信号機が赤色になっていても、横断しようとしたり、車で走り抜けようとしたりすることは、明らかに道交法違反です。法律を知っているにも拘わらず、その規則を守らないことは、処罰の対象になります。それは、その法律が好きか嫌いかで、守る、守らないを決めることはできないからです。

 法律は定められたら、守らなければなりません。そうすることで、多くの人々と共に安心した生活を送ることができるようになります。

 

 神さまからのわたしたちに与えられる法律、掟。それは、こういうことですよと、イエスさまは同じ15章の9節と12節で話されています。9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。12節「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」

 イエスさまがわたしたちに与えられた掟、守るべきことは、父なる神さまを愛し、わたしたちが互いに愛し合う、ということです。その教えをイエスさまは弟子たちに与えられました。

 そして、その教えは、神さまから与えられる「真理の霊」と呼ばれている聖霊。聖霊が弟子たちに、そしてわたしたちに与えられることで、わたしたちは神さまを愛し、互いに愛し合うことができるのです。そのこと自体が神さまを証しすることになります。

 

 旧約のエゼキエルという預言者も、メシアがこの世に来られる時、主がわたしたちに「新しい霊を置く」と預言しました。エゼキエル書36章26節にそのことが書かれています。そして、同じ節で、「石の心を取り除く」と言われているのは、石に書かれた文字。十戒の掟にかえて、イエスさまが与える掟が与えられることが預言されています。

 文字に書き留められた、一つひとつの言葉に忠実であるというよりも、それを越えた、心に響いてくる神さまの思い。聖霊がわたしたちに与える神さまを愛し、人を愛するという掟に従ってわたしたちは歩むことになる。その霊が、イエスさまから与えられるのです。

 

 今、世界的な病の流行のため、人と人が集まって、神さまを礼拝することが困難です。それだけでなく、わたしたちが共に何かをしよう、ということも困難な状況です。この状況は、イエスさまが、聖霊によってわたしたちに与える掟とは、正反対の状況です。

 しかし、歴史上過去に起きた感染病の大流行の後には、教会に大きな変化が訪れました。古代ローマで蔓延した天然痘に対抗する、キリスト者の奉仕。敵も味方も区別することなく病に倒れた人を看病することが、ローマ帝国のキリスト教公認に繋がったと言われています。

 また、14世紀にヨーロッパを襲ったペストの大流行は、人々に生と死のことを問うきっかけとなりました。教会の権威によって、罪の赦しを与えることが是か非かということから、16世紀の宗教改革へと繋がっていきました。

 

 今わたしたちの周囲に起きている、新型コロナウイルス感染症の恐れは、非常に大きなものであり、今までの生活スタイルを変えなければならないほど大きな影響を与えています。

 もちろん、医学的に気を付けなければならないことについては、クリスチャンであってもそうでなくても同じですし、まだまだ気を付けなければならないでしょう。しかし、このような時であっても、変わることなく働き続けておられる神さまが、私たちと共にいてくださることを忘れてはいけません。

 どのような苦しみ、悲しみ、不安な状況の中でもわたしたちに確かな希望と約束を与えてくださる神さまが私たちと共にいてくださる。聖霊なる神さまとして、いつも共にいてくださることに、わたしたちは信頼を寄せ、希望を持って、新しい週を歩んでまいりましょう。

 そして、主を信じる者が、主イエスによって一つであることを忘れずに、それぞれの場所での礼拝を守り、再び共に集って礼拝を献げる時が来ることを待ち望みたいと願います。