聖書 旧約:イザヤ書 62章1節~5節

新約: ルカによる福音書 24章13節~35節

 

 みなさん、おはようございます。

 

  今日も、みなさんはそれぞれのご家庭で礼拝を守っておられることと思います。日曜日に共に会堂に集い、声を合わせて主を賛美することができないことはとてもつらいことです。

 しかし、このような時であっても、主イエス・キリストは、聖書の言葉を通してわたしたちに語りかけておられます。それぞれの場所で礼拝を守っていても、主イエスにあって一つであるという思いを持って、礼拝を守れるなら、再び相集う時、その礼拝での喜びは、今までにも増して大きな喜びとなるでしょう。今日も、主に在って一つであることを覚えつつ、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

 

 イエスさまは、弟子たちと共にユダヤの各地を回られていたとき、少なくとも3度、御自身が苦しみを受け死んだ後、復活されることを預言されました。また、伝道を始められたころ、イエスさまは安息日にユダヤ教の会堂で聖書を、今わたしたちが手にしている旧約聖書を開いて、その説き証しから福音を語られました。そうであるなら、弟子たちは繰り返し、天の神さまからわたしたちに遣わされたメシアがどのような扱いを受け、その後、どのような栄光をお受けになるかを聞いていたはずです。

 

 ところが、弟子たちの多く。とりわけ、イエスさまと伝道の旅を続けた弟子たちは、復活されたイエスさまと、本当の意味で再会するまで、イエスさまがなされたことの意味を理解することができていませんでした。

 ルカによる福音書24章13節から始まる出来事。この箇所でも、弟子たちがイエスさまの死と復活の意味を理解できていなかったことが表されています。13節にある、二人の弟子。一人はクレオパという人物であることが、18節でわかります。しかし、もう一人の名前は書かれていません。そのことは、この二人の弟子が、12人と呼ばれている弟子たちとは別のイエスさまの弟子だったことを指しています。彼らは、イエスさまが復活された日に、エルサレムから、11kmほど離れているエマオという村に向かっていました。当時のことですから、歩いて移動しますので、時間的には、2時間から3時間ぐらいの場所でした。二人の弟子は14節で、「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。しかし、彼らが話していた事柄の関心事は、この世的なことに留まっていたことが、21節の言葉でわかります。

 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」

 彼らがイエスさまに期待していたことは、罪の奴隷から解放するメシアではなく、圧政に苦しんでいるイスラエルの解放でした。そして、仲間の婦人たちが、主イエスが葬られた墓に行ってみたところ、主イエスのなきがらが見当たらないと報告したとき、この弟子たちは、「驚いた」、という感情を持ちましたが、それ以上の意味を悟ることができていませんでした。

 

 二人のところに現れた、復活されたイエスさまは、この二人の弟子たちが物分かりが悪いことを嘆かれました。そして、嘆かれただけでなく、聖書を通して御自身がどのような者であるかを、旧約聖書全体を通してこの二人に説明されたのです。イエスさまは、モーセとすべての預言者から始めて、説明されたと書かれています。ヨハネによる福音書1章には、イエスさまは、父なる神さまがこの世界を創造された時から居られたことが語られていますから、旧約全体から救い主のことを説明されるのは当然でした。そして、モーセとは、創世記から始まるモーセ五書。創世記、出エジプト記、申命記、レビ記、民数記のことを指しています。

 

 旧約には多くの書物がありますが、特にその中でもよく取り上げられる預言書の一つに、イザヤ書があります。イザヤ書は、一人の預言者が預言した言葉ではなく、三人の預言者が預言した言葉が集められたものと考えられています。今日お読みしたイザヤ書62章は、三人目のイザヤ。第三イザヤが預言した箇所だと考えられていて、第二、第三イザヤは、メシアによる救いの預言を多く語っています。62章1節から5節の言葉。1節の「シオン」とは、エルサレム神殿が建てられていた丘のことを指す言葉です。シオンもエルサレムも旧約では、主なる神さまがおられる場所として預言の中で語られています。

 

 日本には、多くの寺社仏閣があり、そこに祭られている神や仏は、私たち人間が、像や信仰の対象物を置いて、その場所が神域だとしています。しかし、イスラエルの人々にとって、シオン、エルサレムは神さまがその場所を指し示し、そこに神さまがおられるということを宣言された場所になっています。人からではなく、神さまの方から、その場所を定められた。神さまは、御自身の正しさ、そして、御自身が計画された救いをわたしたちに示すために、その場所を選ばれたのです。

 

 エルサレムという場所が、神さまによって用いられ、正しいものとされ、救いが示される。エルサレムを通して、光や松明(たいまつ)が輝くように、主の正義と救いが示される。それは、とりもなおさず、主イエスの十字架の死と復活が、エルサレムという場所で行われることを示す預言でした。旧約では、メシアはまだおぼろげながらでしか、表されていません。そのため、2節で、「主の口が定めた新しい名をもって あなたは呼ばれるであろう。」と言われています。「新しい名」とは、イエス・キリストのことであり、この方が、「主の御手の中で輝かしい冠となり」、「神さまの御手の中で王冠と」なって輝くのです。

 4節、5節の夫、花嫁のたとえは、主イエスが夫として、神さまを信じる民が花嫁として語られています。主なる神さまがこの世に救いをもたらされるとき、主を信じる人々は、夫に喜ばれる花嫁のように、神さまに迎え入れられます。

 

 イエスさまが、エマオに向かう弟子たちに、旧約の預言を通して、十字架と復活の出来事を説明された時、イザヤのこの箇所を用いられた、そのように説明されたでしょう。

 旧約聖書は、明確な言葉で書かれていなくても、すべての言葉が、主イエス・キリストの救いを証しする、主の言葉として語られています。私たち人間の歴史の中に介入された神さまの愛を、イエスさまは弟子たちに語られたので、二人の弟子の心は、熱く燃え上がりました。

 

 人生の中で、恋愛を経験したことがある人なら、恋をしたとき、胸が苦しくなるような経験をしたことがあるでしょう。好きになった相手のことを思うと、心が苦しくなる。「恋い焦がれる」という言葉がありますが、神さまが私たちをご覧になるとき、神さまの愛は、まさしく「恋い焦がれる」愛に似た愛情、と言うことができます。それは、どこからわかるかと言いますと、モーセが神さまから十戒を与えられた時、主はモーセに向かって、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」と出エジプト記20章5節で言われているからです。

 「熱情」とは、「熱狂」ではありません。時々、ある宗教団体では、何かに取りつかれたように夢中になる様子を見せて、神さまを信じることは、このような状態だと説明することがあります。しかし、わたしたちが信じている神さまは、心の中に熱い思い。愛を持ってわたしたちに接してくださる方ですので、「熱情の神」という表現をされているのです。

 

 今は、外出することも控えなければならない状況ですが、その前まで、この数年人気が高まってきた趣味としてキャンプがあります。日帰りキャンプでも、薪に火をつける時は、別の火を持ってきて、薪に火をつけます。火をつけるためには、別の火を持ってこなければなりません。熱く燃える火を起こすには、別の火を持ってくるということ。「熱情」をその火にたとえるなら、熱い熱情を持ってもらうためには、別の熱い熱情を持ってくればその熱情が伝わるということです。そのようにして、熱い熱情をもって語られたイエスさまの言葉は、二人の弟子たちにとって、メシアがどういう方であるかを、心を燃やす言葉として聞こえました。

 

 弟子たちは、イエスさまから聖書の話しを聞いていたときには、まだ、話しをされている方がイエスさまであることに気が付きませんでした。しかし、イエスさまと共にその夜泊まろうとして食事の席に着いた時、「イエスさまがパンを取り、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いて渡され」ると、弟子たちの目が開けて、その方がイエスさまであることがわかりました。ところが、この二人の弟子は、イエスさまが12人の弟子たちと最後の食事をともにした場所にはいなかったのでしょう。もしも、その場にいたとしたら、食事の席でイエスさまがなされた仕草から、この方はイエスさまだと分かったはずです。しかし、ルカはそのようには書いていません。ただ、「パンを裂いて渡された」ことで、イエスさまであることが分かったと書いています。

 

 イエスさまは、12人の弟子たちと最後の食事を共にされた後、パンとぶどう酒を弟子たちに分け与えることを通して、主イエスの、キリストの恵みを伝えました。その中で、パンを裂くことは、イエスさまの体が十字架の上で、神さまに献げる犠牲(いけにえ)として。裂かれることを表していました。二人の弟子がパンを裂く様子を見たとき、そのことから、イエスさまが自分たちのために、自分たちの罪を赦す犠牲となって十字架に架けられたことを理解できたのです。

 

 今や、二人の弟子は、イエスさまがエルサレムでなされた事柄の意味を正しく理解することができました。そして、今まで自分たちが考えていたことが間違っていたことも分かりました。 それで、このことを他の弟子たちにも伝えなければならないと思い、そこで泊まることをやめて、急いでエルサレムに戻り、ユダを除く11人の弟子たちに復活されたイエスさまとの出会いと、そこで起きた出来事を話しました。すると、11人の弟子たちも、復活されたイエスさまがシモン・ペトロにお姿を現してくださったことを話していました。

 主イエス・キリストの体が裂かれたことによって。聖餐式でわたしたちに与えられるパンが裂かれるということは、主イエスの十字架での死を表すことであり、それを覚えることであるということです。そのことを通して、主を信じる人々が、イエスさまが語られ、御自身が示された福音の意味を理解することができるようになったのです。

 

 わたしたちは、「福音を伝える」という言葉を使います。ところが、「福音」。「良き訪れ」という言葉を聞くと、つい、イエスさまが話された言葉だけに注目しがちです。しかし、それだけなら、「福音」という言葉を半分だけしか理解していません。「福音」という言葉には、イエスさま御自身が十字架の死の後、復活された出来事という意味もあります。イエスさま御自身そのものが「福音」であるという理解をわたしたちはしなければなりません。

 

 いま、世界中に広がっている病にわたしたちは恐れを感じ、日本の多くの教会でも、会堂での礼拝を自粛しなければならない大変つらい状況になっています。しかし、わたしたちが恐れていることは、病と言うよりも病によってもたらされる「死」ではないでしょうか。「死」はだれであっても、この世で「生」を受けた者すべてがやがて迎えなければならないことです。しかし、その「死」に勝利され、わたしたちに罪の赦しと、永遠の生命という希望を与えてくださったイエスさまがおられる。それだから、わたしたちは、どのような困難な状況であっても、苦しみ、悲しむ状況であっても、希望を捨てず、神さまを見上げて歩みつづけることができるのではないでしょうか。

 

 死に勝利された方が、私たちと共にいてくださり、いつもやさしい目で見つめていてくださる。そのことをわたしたちは、決して忘れてはいけません。その方が共にいてくださるから、わたしたちは、二人の弟子のように、「心を燃やして」主の御言葉に聴き、主の御言葉を命の糧として、新しい週を歩んで行くことができるのです。

 主の恵みに感謝して祈りたいと思います。