My Story 7
なんて言ったら良いのだろう?
「終わったんだ・・・。」
あれだけ、日本に帰りたい。友達、家族に会いたいと思ってたのに・・・。
すべてが終わったと思うと、何もしたくなかったな。
何時間でも寝ていられるような感じがしたんだ。
それは、何も変わらない。ここ数日間の同じ「目覚め」だった。
看護士が走り回っている。
体の周りの機材は、さらに少し増えていた。
相変わらず、身動きが取れない。ベットにくくりつけられている。
変わった事と言ったら、「妊婦のように膨らんだお腹」。
そして、わき腹から「太いチューブ」が出ていた事。
微かな記憶の中には、よくTVで見るような。
手術台を照らす「眩し過ぎる光」。そしてそれを囲む全身白衣の人達。
体の痛みはもうない。
指先。足先の神経を確認する。
何がどうなったのか、心配だったけど。
「とにかく、終わったんだ。」そう思った。
脾臓破裂。修復不可能で摘出。
胃の半分を摘出。残り部分を縫合
大腸の一部、さらにすい臓破損で縫合。
手術は6時間、出血1.5リットル。
背骨一部損傷。
たくさんの臓器を傷つけた。
中には、無くなってしまった物もあった。
ベットで寝ているのはイヤじゃなかった。
ただ。ヒマだったな。
毎日1つずつ、何かが取れていった。
「点滴」や、尿道の「チューブ」も首の「ギプス」・・・。
クレアのお母さんは、毎日仕事が終わったら来てくれた。
「今日はどう?」「私はこんな事があったのよ!」
優しく、ゆっくり。よく話してくれた。
アンディとクレアも見舞いに来てくれた。
クレアは「やったじゃない!MS!お腹にこんなカッコイイ傷があるなんて!女の子は、男のキズは大好きなのよ!だって、セクシーじゃない!」
本当かよ?とか思いながらも笑っていた。
ちょうど心臓の下くらいから、ヘソの下まで。約30cm。
「お腹を切り開いた後」。
そして、脇腹にボコッと凹んだ「チューブの後」。
これから、こいつらと一生を共にする。
一週間後くらいだったかな、母親と妹が「病院」に来てくれた。
海外の人の様に、抱き合ったりできないけど。
そこにいたすべての人が、溢れ出す涙をこらえて「赤い目」をしていたよ。
ものすごい「日本人的」だけど、気持ちは十分伝わっていたと思う。
その後、さらに食事のリハビリで1ヶ月ちょっと入院。
とてもヒマだったし、ワガママ言って日本に帰らせてもらった。
入院や通院しながら、「6ヶ月」地元で過ごした。
とても「たくさんの事」を考えた。
スノーボードのことも含めて。
良い時間だった。
今まで、そんなに「考える時間」なんて作らなかったから。
そして、その間たくさんの「素晴らしい本達」にも出合った。
ジャンルにとらわれず、たくさん読んだな。
母親に「アンタは小さい頃、よく本を読む子だったんだよ。」なんて言われて。
脳みそがすべて「スノーボード」で出来ていた人間には、どれもとても新鮮だったよ。笑
そんな時、1本の電話があった。
「あっ!言い忘れてたけど。来年のゲレンデパンフレット!MSの写真使ったから!もう出来てるから送るよ!」
オーストラリアに旅立つ前に撮った写真。
その後、3年に渡り、撮影した写真を使ってもらった。
某○○ウォーカーのゲレンデ特集では、何枚も使ってもらった。
うれしかった。
家族や友達に配って「自慢」した!
自分のやってきたことが、また形になった。
スノーボードがすべて・・・。
「スノーボードが僕のすべて!」
「スノーボードが僕のすべて?」
スノーボードは夢・・・。
・・・・・。
スノーボード以外に、あるものは・・・・。
「居酒屋」「イタリアン」での少しのバイト経験。
少しの海外経験。
北海道。
どれも「中途半端」だ・・。
25歳。長い1年だった。人生で1番考えた時。
どんなに離れていたとしても「家族の絆」は、確かに存在して。
いつドコで、何をやっていたとしても「心配」して「応援」してくれる。
今まで1度も、僕のやることに「反対」しなかった「家族」。
感謝しています。
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