本日は半日休暇を取得、国立演芸場で円楽、談春を聴きにいきました。長らく8月お盆興行というか中席のトリであった歌丸が死去して円楽がそれを継いだ形で、昨年に引き続き楽しみいしていました。
 
桂竹丸のバンコク寿限無、バンコクの正式名称がやたら長いことを利用したネタではははと笑いながら、仲入り後の談春、談春によると10日間、代演なく連続で出演したのは何と今回がはじめてとのこと。立川流や円楽一門はそういう噺家も多いのでしょうね。よかちょうははじめて聞いたネタですが、流石の上手さ、一瞬で出番が終わりました。そして主任の円楽。適度な笑いもある浜野矩隨。あらすじは下記の通りですが、こちらも見事な出来栄え、話をすっと身体に入ってくるようで場面が自然と頭に浮かんできます。昔は上手さを鼻に掛けたところがあって避けていましたが、今は芸としては最充実期ですね。留名となっている圓生襲名にも意欲を示しているとのことですが、圓生を知る若い世代も多くなってきたなか、芸と名跡を後世に残すためにも襲名は大賛成です、では。
 
<浜野矩隨のりゆき>

江戸は寛政年間、浜野矩康(のりやす)という腰元彫りの名人がいた。その名人が亡くなって奥様と一人息子の矩随が残された。先代の時は浜野家の前に道具屋が列をなしたと言うが、息子の代になって誰も相手にしなくなった。それは矩随の作がヘタで作品と言われる以前の問題であった。しかし、一人、芝神明の”若狭屋甚兵衛”だけは先代に世話になったからと息子の作品をどんなものでも1分(いちぶ)で買い上げた。

 今朝も若駒を彫ってきたと言うが3本足であった。眠気が来て足1本を彫り落としてしまったという。その心魂に呆れ、若狭屋は言いたくない事ではあったが言った。「ミカン箱に13箱こんなゴミ作品ばかり溜まっている。河童狸は頭に皿を乗せているが、下は狸だ。小僧達はこれを見て笑っている。下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。これからは縁を切るから5両の金を渡す。これで以後ここの敷居を二度とまたぐんではないぞ。死に方が分からなければ表に出て左に行きな。吾妻橋から身を投げな。それが出来なければ、右に行くと芝増上寺に出る。そこの門前に枝振りの良い松がある。その松で首をくくんな。ぼんやりした顔をしてないで帰んな」。

 家に帰り伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母はお見通しで、若狭屋さんの一件を聞き出した。母親は「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望した。
 裏に出て井戸の水をあび、仕事場に入り仕事を始めた。隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。4日目の朝、出来た観音を母親に渡した。感心して見とれていたが、「もう一度若狭屋さんに行って30両びた一文まからないからと見せておいで。それでも、負けろと言ったら好きな所に行っても良いよ。お行き。」と息子に言い聞かせた。「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。では、行ってらっしゃい。」

 言い過ぎた事を謝る若狭屋に観音像を見せた。おっかさんに町で会ったとき「一品ぐらいは残っていないのですかと聞いたら、『全て食べ物に変わってしまった』と下を向いてしまった。ゲスな事を聞いたと思ったが、やはり残っていたんだな。素晴らしい観音だがお前には分からないだろうな。で、いくらなんだ。」、「30両びた一文まからないんです。」、「30両の前を聞き逃してしまったが。何百30両なんだ。え!ただの30両か。言い換えるなよ。おっかぁ、30両早く出せ。ところで、お前はつまらない野郎だな、オヤジの30両ばかりの金で泣いていやがる」。「それは私がこさえました」、「馬鹿野郎!一番言ってはいけない事を今言ったんだぞ。根性も曲がってしまったんだな。・・・(裏の銘を見て)どうして、これが出来たんだ」。「あの日帰って、親に話すと形見を彫ってくれと言われたので彫った。少しでもマズかったら死んでも良いと言われ、心魂込めて彫ったのがこの観音様です」。「オヤジの作品だと思って話していたが、間違っていた事は謝る。必死になって彫ればオヤジと同じように魂の入ったものが出来るんだ。道具屋仲間にも自慢できるよ。おっかさんの目利きも凄いが、どうしている? え!?水を、半分ずつ飲んで出掛けてきた? 馬鹿野郎、それは水杯ではないか。すぐ帰れ」。

 とって返した自宅は内から戸が釘打ちされていた。中にはいると線香の煙の中で、九寸五分で手首を切って倒れていた。「おっかさん、本当は売れないと思っていたんでしょう。若狭屋さんはおとっつぁんのと間違えて買ってくれました。おっかさ~ん。おっかさぁ~~ん」。心が届いたものか、手当がよかったのか一命は取り留めた。
 あるんですねぇ、ある時を境に上手くなる時が。
 名人矩随が出た、との噂で浜野の家の前に道具屋の行列が出来たが、「私の作品は若狭屋さん以外納めませんから」との事で、若狭屋にお客が集中した。
 お客の中には「どんな彫り損じでも良いから」とねだる者も出て、初期の作品の3本足の馬や河童狸もミカン箱から売れていった。

 名人に二代無いと言われたが、浜野の二代は名人の称号を欲しいままにした。