文芸は道を求める筌なり、

魚を得れば筌は無用のものなり。

 

 

 中江藤樹の『翁問答』からの引用です。筌というのは、竹製のカゴのようなもので、水中に沈めて魚を捕獲する道具です。

 陽明学や実学重視の朱子学を学んだ人は、虚文を嫌う傾向があります。虚文とは、一言でいえば、ああでもない、こうでもないとこねくり回された文章です。あるいは、実際の様々な事象には役に立たない単なる文字遊びのような文芸のことを言います。

 

 

 

◆ 徒然日記

 1900年3月15日に、第四代台湾総督の児玉源太郎と民政長官の後藤新平が中心となり、第一回楊文会が台北で開催されています。日本の統治を受ける前の台湾の教育は、清朝の方式に準ずる書院教育が中心でした。書院とは、漢学を教える塾のようなもので、台湾の書院で教えられていたのは、朱子学が中心で、陽明学は、末学と見られており、重要視されていないばかりか、危険視さえされていたそうです。

 

 台湾の楊文会は、日本の公学校制度を導入し、敷衍する上で重要な役割を果たしてきました。第一回楊文会には、台湾の伝統的な書院教育の従事者など72名の知識人が招待されて、意見聴取が行われています。

 

 台湾にいつ頃から陽明学が伝わったのかという文献は、寡聞にして、今のところ知り得ていないのですが、明朝末期に鄭成功が台湾を統治した時代には伝わっていたのではないかと思われます。鄭成功自身が陽明学を学んでいたかはどうかは、文献には残っていませんが、水戸学に影響を与えた朱舜水や黄檗宗開祖である隠元の日本亡命に鄭成功が奔走していることから、直接的ではなくても、朱舜水、隠元などのような陽明学を学んだ知識人や宗教家から間接的に陽明学に触れていた可能性は高いと思います。

 

 ただ、鄭成功の時代に陽明学が台湾に伝わっていた可能性は極めて高いのですが、中国大陸の清朝と同じ運命をたどり、台湾でも衰退していったのではないかと思われます。

 

 台湾総督府が推進した楊文会は、虚文から実学へ、書院教育から公学校制度への転換を図る上で重要な役割を果たしているのですが、意図しないところで、台湾に陽明学の種を蒔く役割も果たしたのではないかと思われます。

 

 日本の教育制度が導入されて、初めて学士号を得た林茂生は、東京大学に留学して、東洋哲学を専攻し、主に陽明学を学んでいます。台湾総督府が、陽明学を推奨したというわけではありませんが、もし、従来の朱子学一辺倒の書院教育の環境の中では起こらなかった変化と言えるのではないかと思います。

 

 

本文章を書く上で以下の論文を参考にさせていただきました。

 

山形大学大学院社会文化システム研究科

1900 年植民地台湾の「揚文会」に潜む二つの虚文観 

―後藤新平と呉徳功をめぐって―*

許時嘉 著

 

 

こころで読む易経 

『こころで読む易経』~本当の自分を知る良知易のすすめ~  

  柏村學震 著 Amazonで販売中