こんばんは。

前回の記事でフォロワーさんがだいぶ減った私です。

 

実はフォロワーさんの数って今まで気にしたことがなかったのですが、それは単に少しずつ増えたり減ったりしていたからで、今回のようにドーンと減ると流石の鈍い私でも気がつくようです。

 

それは想定内というか、いや、逆にアクティブなフォロワーさんがそれだけいてくださったってことの証明なわけで、なんというか減って嬉しいというのもどうかと思うんですが、誰にも読まれずにいるよりは、わざわざこいつ腹立つからフォロー外してやろか!っていうアクションの方がずっといいというか。

 

いや、いいわけはないんだけれど、なんというか・・・表現を間違えると誤解されてしまいそうですが、私はこれからもきっとこんな感じのまま彼らのことを好きでいると思うので、このややこしい私の感情が伝わったからこそ、きっとフォローを外したのだと思うので、だからなんか伝わって良かったな、って思ったりするわけです。(ややこし)

 

そんなわけで、そんな私が彼らのドキュメンタリーを観た感想を書きたいと思います。

すっかり時差投稿なせいで、このドキュメンタリーへの評価を散々あちこちで目にしてしまったわけなんですが、みなさまはどうお感じになられたでしょうか。

 

色々なトピックスが噴出していますよね。

 

パンPDとニコルさんが高圧的だったとか、誰だれの出番が少ないだとか、ジンのスケジュールがタイトすぎるだとか、内容が偏ってる、とかとか。

 

そりゃ見る人の数だけ期待していたものがあるわけで、しかもこっちは何年待ってたと思ってんだ、って話ですし、いや転役したらすぐに見れるんじゃないかって思っていたものが全然見られなかったし、アルバムリリースまでだって情報少なすぎだったのにやっと見れたのがこれかい!って話ではある。うん。

 

まぁでも、彼らの数ヶ月をあの時間に収めるのですから、当然全部を掘り下げることは出来ないわけで、どうしたってテーマは絞って構成するしかないわけで。

 

様々なアプローチを持って「ARIRANG」への想いがメインテーマだったんじゃないでしょうか。

 

けれど製作側が伝えたかったことよりも、視聴者側が気になってしまったことの方が大きかった。

そちらに感情が引っ張られすぎて、伝えたかったであろうことが耳に入らなかったんじゃないかな、って思います。

 

彼らがカムバックの旗印に選んだアルバムのタイトル「ARIRANG」。

 

このタイトルは良くも悪くも人々に与えた影響が大きかったんだろうなぁ、って思うし、だからこそこの選択は間違っていなかったのかな、とも思うのです。

なぜなら彼らの仕事は人々に様々な感情を与えることだから。

 

私の見聞きした範囲ではあるけれど、このドキュメンタリーへの感想としてネガティブな意味合いとして上がっていたのは、多くはこの1シーンに集約された件に憤っていて、この「ARIRANG」は彼らが抑圧された環境で作られたアルバムだったんじゃないか、という感想だったわけだけれど、私は全然そうは思わなかった。

 

このドキュメンタリーを通して私が1番印象的に感じたのは、パンシヒョクの醸し出す威圧感でもなく、ニコルさんの持つ冷たい雰囲気でもなく、メンバーたちの微妙な顔つきでもなく、重苦しいミーティングの空気でもない。

 

それは「아리랑」に対する彼ら一人一人の想いや認識の違いでした。

 

パンシヒョクがゴリ押ししたように見えるあのシーンで、また「Body to Body」の制作過程で、メンバーがそれぞれ取った態度や発した言葉にそれが如実に現れていて、私は前記事で勝手にこのタイトルを知った本国アミたちが「きっと胸を熱くしただろう」と書いたことを恥ずかしく思ったのです。

 

この「아리랑(アリラン)」はテヒョンが言ったように「愛国心の象徴」であると言えるし、またジョングクが言ったように「外国人には知られていない」存在であるとも言える。

 

韓国人だからって一様にこの「아리랑」に深い思い入れがあるわけじゃなく、それぞれが育った環境や学びの中でそれぞれが持つ解釈として心に秘めているもの。

 

人によっては大きな存在であるけれど、また他の人にとってはさほどのものでもないのかもしれない。

 

それは環境だけでなく、年代的なものもあるだろうし、文化的なものもあるだろう。

 

彼らは韓国を愛しているだろうし、歴史の勉強も、他国との関係なども学んでいるに違いはないが、「아리랑」に対する想いの濃淡はたった7人の中ですらあるはずで。

 

彼らの発言の中から拾える感情でも違いはかなりありそうな気がする。

つまりはさらに上の年代であるパンシヒョクと遭いなれば、そこはさらに違いがあって然るべきなのだろうと思う。

 

このドキュメンタリーではパンシヒョクの威圧感が存分に醸し出されていたけれど、それは当然なのではないかな、と思う。

人は自分と違う意見、自分より上の立場の人の言葉には否が応でも威圧を感じるものだと思う。

あの程度の威圧など、社会生活を送っていたら当たり前に経験すると思ったのは私だけかしら。

 

あの場面を見て、私は彼らが抑圧された環境でアルバム制作をしていた、とは全然思わない。

せめてラップ部分には韓国語をもっと使いたいと言ったユンギを諌めたニコルさんについても。

 

なぜなら仮にその環境であったとしても、最終的には彼らが選んだものだと思うから。

「아리랑」に対する想いがどうであっても、大袈裟すぎると思っていても、またそこまで必要ではないと思っていたとしても、どれだけ迷ったとしても、最終的にアルバムタイトルにし、トップに据えた曲に編入したのは彼らの判断でしかない。

 

だって彼らは大人だから。

自分たちの声を届けるために音楽をしていると私は思うから。

その音楽を軽視することだけはないと思うから。

 

正直に言って、あのクダリは想定内じゃないですか?

最近になって急にパンシヒョクが彼らの制作物に口を出してきたとは思えないし、ニコルさんを筆頭にグローバルを意識した戦略をとってきたことは周知の事実。

 

K POPを変え、K POPを背負って世界に打って出ている会社のトップならば当然、「아리랑」を世界中の人たちが口づさむ姿が見れるかもしれないというチャンスを逃すわけがない。

 

光化門の前にあんなステージを組み、この動乱の世界情勢の中で韓国にあれだけのインバウンドを呼び込むことができるアイドルは後にも先にも彼らしかいない、と思っているからこそなんだろうと思う。

 

だから全然見ても驚かない。

そりゃそうだっただろうね、ですよ。

 

私が前回「残念だった」と書いた理由の大きな一つは違和感だった。

韓国人としてのアイデンティティを強く押し出しながらも、アメリカで制作し、外国人PDを雇い作った楽曲。

外国人に翻訳してもらった詩。

 

その違和感はもちろんなくなったわけではないし、彼らが会社の言いなりで適当な売れ筋として音楽を作っていることは絶対にないとわかっていたけれど、こうして映像で、彼らの言葉で、想いを知ることが出来、制作の過程を見れたことは、私にとっては嬉しいことだったし、やっぱりウリバンタン素敵だよね、となったわけです。

 

もちろん全体の感想として、気になるところはたくさんある。

 

ナムジュンの苦悩はいつもながらだけれど、ジンが制作過程にあまり関われなかったこと、LAでのジンの姿が少しだけ疲れて寂しそうに作られていること(本当はどうだったかわからない)、ほとんどの曲にコーラスで入っていたジョングクの姿は映されていなかったこと、さらに「1人の歌手として見てほしい」という言葉。。。

 

気になり始めたら止まらないのは私の悪い癖だけれど、これまた所謂「キリトリ」でしかない。

前後の文脈、表情、シチュエーション、ひとつ違えば印象は全く変わる。

 

けれど

 

「また集まれたなんて信じられない」

 

って光化門の前で独り言のようにジョングクがつぶやいた言葉はキリトリじゃないし演出でもないと思う。

 

私たちは知っている。

この言葉の重みを。

 

ただ7人がそれぞれのお役目を終えて、また集まっただけじゃない。

 

チームを離れて1人の韓国人青年に戻って生活をしたのちも、同じ気持ちを持ったままで、強い信頼を結んだままで、またファンの前に戻って来た。

 

7人揃って。

 

あのジョングクの口から思わず漏れた「信じられない」の言葉は、ここに立つまでにどれほど困難があったのかの証明なんだと思う。

 

この言葉が聞けただけでも、このドキュメンタリーに意味があったように思うのです。