内海医師のブログを読んでいると、虚無主義が良く出てくる。
正の不存在を考えの根幹としているとのことだが、かなり悟りの世界に近いと感じる。(悟りという言葉も独り歩きしているので使いたくないが。)
つまり、下記でいう原理であり、真理であり、不変のものであり、世界を超えたものであり、世界を包括するものである。
世界の原理を知ろうとするなら、世界の中から見ていてもわからないという単純な理屈で説明できる。世界を外から見るにはどうしたらよいか。世界を包含するところから見なければ見ることはできない。これは、まさに世界が生まれたところ意識の中核であろう。
全てを包含するそれには対極は存在しない、つまり立ち位置や判断というものは存在しないということである。
そこに自分がいる時、それが自分であるとなった時、人は初めて枠を超えて原理を見ることができる。

----------------------------------------------------------------内海医師のブログより

きわめて重要なことについて真面目に書いてみたい。

人類にとって最も欠けているのは原理原則、根本や根幹などという概念について思考することが、決定的なまでに存在しないという点だろう。であるならばここでは、原理原則や根本や根幹とは一体なんであるかについて考察せねばならない。まず原理原則を考える前に重要なことは、たとえばこのウォールに書かれていることをうのみにしないことである。なぜなら本来情報などというものは所詮引用であるからだ。そのように情報に洗脳されることをやめ、自分で調べ、自分で考え、自分で選択し、自分で責任を取ることの重要性をまず認識できるだろうか?どのような情報も間違いをはらんでいるということを知らずして、原理原則や根幹の前にさえたどり着くことは難しい。

グーミンというのは何かを知らないからグーミンなのではない。逆になにかオタククサイ知識をもっているからグーミンじゃないわけではない。これはこの世で策謀に対して述べている多くの発信者の人々であってさえもそうである(批判的な意味で名前は挙げない)。特にそのような人々は策謀について一定の理解をしたために、自己を妄信化し違う意味で刷り込みされていることに気づいていない。自分たちが所詮その程度だといわれたら、多くの発信者はむきになって怒るか、「キミよりは知っているよ」などと自己防衛するのが基本行動となるだろう。それがどれだけ愚かな行動かなどそのような人々に理解できるわけはない。

虚無主義的な考え方にのっとればこの世に価値あるものはなく、この世に正しいなどという概念は存在しない。いわゆる「正の不存在」が考えの根幹であり、これがあるからこそどのような生物よりも奥を見通すために知性を働かせることができる。知性や知恵と知識は違うものである。知識を集めていけば集めていくほど原理原則や根幹というものが見えてくる。それを知ってしまえば末端や枝葉の知識は一切必要なくなり、何かを判断するときに知識を使う必要がなくなるのだ。本来それこそが知恵であり、知恵は直感や本能と密接に関係している。

医学の分野においてこの病気がどうたらあの治療法がどうたら言っていても意味はない。医学は殺人と金儲けのために存在することを知っていればいいことである。食の分野であの食材がいいとか悪いとかGMOがいいとか悪いとか言っていても意味はない。食学とは地球を汚染し病気を作り金儲けするために存在すること知っていればいいことである。政治も経済も福祉も教育もすべてそうである。それを知恵として理解していればそもそも学問になど頼らず、学問に自分が振り回されることもない。そもそも科学が間違っていることも容易に見抜くことができる。

サタニストは常に上位にいて、下々の者として扱われている者たちはグーミン丸出しではあるが、実際は真の悪ではない。「だまされているバカ」ではあるかもしれないが、一番の悪は上層部ですべてを操っている奴らに決まっており、グーミンの罪はそれに気付こうとしないことにある。この情報戦は結局のところどれだけ多くの人が原理原則や根本を理解するかにかかっている。そこに枝葉の知識は必要なく無理に詳しく覚える必要はない。少々知識がある発信者などバカにしてやればいい。

人々よ、まず真の因果関係を知るべきだ。その表面に現れた何かにとらわれてはならない。そして因果の輪を乗り越えるためには自覚と発想の転換こそが必要である。人類の思想の根幹的問題である「その場しのぎ」であったり、「対症療法」であったり、「臭いものに蓋をする」ことをもうやめる必要があるのだ。自分がバカであると認めること、少々知識を得ようが今でもバカだと認めることこそが、バカから抜け出すための基本である。自分がそう思えた瞬間に次に何をすべきかが見えてくる。

よくいわれることは、医薬品や農薬や添加物やその他の毒性物質についてどう考えるか、ということである。たった一言でいえばそのすべてはこの世に必要なわけがない、ということに決まっている。では、たとえば我が家はそれをどれくらい避けているかというとそうでもない。避けられる簡単なものは避ける工夫をしているが、めんどくさいものは避けないし、そもそも避けているつもりでも避けれていないものも多い。

入れる毒を防ぎきれないなら解毒を重視する、これはこれで大切な考えである。うちも基本的にはその方針でやっておりそのために解毒プログラムを組んでいる。それはそうだがやはり解毒プログラム自体に意味がないということを人々は理解できるだろうか?これが至上かどうかといえばまったくかけらもそうではない。低温サウナと栄養療法の解毒プログラムひとつとっても、毒は確かに出ていくがいいものも体から出ていく。ある意味非常に野蛮な治療法であり、あと10年20年もすれば廃れてしまうと私は思っている。世がいい方向に向かえばという条件付きだが。

自分が無毒のものを食べているというのは結局エゴの境地でしかない。それは無農薬でないものを理想論的に認めるということではない。そうではなく本質的な解決策とはこの世界が農薬を使わなくなり、農薬がこの世界から消えるということだけである。まさにこれは理想論と現実の乖離であり、あらゆる場面、あらゆる分野に存在する。であったときに仮に何かを発信し世を変えたいとか、このままでいいのかと思っているのであれば、一切の現実論は必要ない。結局入ってくるのは現実を考えれば致し方ないが、行動、活動、市民運動とはその対極でなければならない。そうしなければ進む可能性自体がなくなるからだ。すべては妥協した瞬間に頓挫する。

あなた方がそれらの毒物を使うというのなら、あなた方が選択するなら好きにすればよい。しかしそれを他人に強要したりシステムに乗っけたりされても、私にとってウザいだけのことだ。この精神薬は副作用などないですよと述べながら、さっさと処方することにこそ問題があるのであり、全部知っても飲みたいニンゲンに私が興味ないというだけである。農薬、添加物、GMO、その他すべて同じである。人類が「私は健康でいたい」とか「この商品は健康にいいですよ」といいながら、毒物を混ぜ込んでいる姿は本当に心の底から醜い。私もダグラス社のサプリなど使っているが、これが良い商品だなどと思ったことは一度もない。しかし神ならぬ身の自分が抜け出すためのいくつかの手法論を提示しているに過ぎない。

虚無主義者はなぜ虚無主義者なのか。私は自分のことをスターウォーズでいうシスの暗黒卿だと思っているが、この意味はおそらく人々には伝わるまい。医学でも医学外でもその観念は同じであり、それは結局原理原則に通じていく。人々は自立しているふりをしても、すべてのニンゲンが支配されていることには気付かない。真に自立するためにはもっと別のことを為さねばならない。