私は'萌え'文化は提案、関与した。デフォルメしたドレス、B級感を厭わないバカップルぶり、また、内心で淡い恋心を抱いて、それが大して実りもしないが人生のいっときの満足感として肯定できる感性。それを、萌え、として定義し、公的に表現したことも、しようとしたこともある。ドイツの演出家や宗像の演出家に否定されたが。



今は'推し'文化がそれの最新版だと認識している。ファンだ、といわずに、推しだ、ということの違いは、どうやらファン=推し手であり、推し=スター(アイドル)であるということ。ファンである自分を語るのではなく、スターのことを崇めるような角度ではなく、まるで対等の身分であるかのような角度で応援する、それが '推し' だと認識していた。



要するに私の理解では目的語が変わっただけという認識に過ぎなかった。しかし、もがたんぺによってもう少し踏み込んで定義されようとしている。


推しとは、推し手が恋愛感情とは関係なくその活躍を祈願、応援するただ一人の者。


これはなかなか贅沢な話である。


芸能人における、完全なご贔屓というわけだ。

そこには配偶者という、法律によって関係を認められた好意の感情をそこで切り離したいという意図をみる。


要するに、配偶者でもない他人を好意をもって応援するのであれば、散財せずただ一人にし、恋愛関係ではなく、表現者としてのアーティストとしての、上澄みの部分をのみ媒体としようという提案ととらえることができる。


これはまことに大胆な話で、不可逆性を論じようとすると途端に破綻してしまうだろう。


もし、ほんとうに推し手が推し一人にのみ好きだと表現し続けていて、それを推しが信じて恋仲になったとして、推しが別の推し手を推したとき、推し手は推しが推す別人をも間接的に推すことになってしまうが、それは間接的だから気にしない、としても、推し手は推しの許可なしにほかの芸能人を推す行為ができないということになる。推し手と推しが夫婦になったとして、ふたりの好きなアーティスト、というのを応援する型が禁じられてしまう。理詰めで考えるとそうなる。



私は前にも言ったが、もがたんぺのファンではないと自称している。そもそもネガティブが基調にある私が、誰か芸能人のファンになってその芸能人が得をするなんてことがあるわけがないと自覚しているからというのが一番の理由。二番目の理由が、彼女がファンとは恋愛しないと言っているから、だ。ただこれ、ファンとは恋愛はしないけど、交際ゼロ日婚ならするのか?という、法の抜け道のようなリクツも控えてはいる。しかし私はそっちのほうは考えに入れず、私にとってはほとんど、恋愛⇨結婚(恋愛≒結婚)なので、ファンになったら結婚できないと考えて、ファンクラブにも入らないように、全国各地に追っかけもしないように、また、どんな表現者であってほしいとか、どんな媒体で活躍をみたいとか、煽る(ファン)行為を一切しないでいる。では何をするかというと、フォロワーとしてフォローはするのである。


もう一度言うが私はネガティブが基調なので、ポジティブ一辺倒の勢いや流れから落伍してしまったひとを支えるのには向いている。


私のネガティブは決して、何もかも滅んでしまえばいいとか、人口なんか人工的に削減されたって仕方ないんだとか、他人の不幸は蜜の味とか、そういう類のものではない。飛行機の轟音被害から学んだ、無意識の殺意に対する意識的な怒気である。鳩の面に豆鉄砲がお好みでないようならば噛み砕いて噛み砕いて、どれだけでも廻り込んでしかし理解されよという態度は諦めずに続ける、そういう類のネガティブである。それすなわちポジティブのためのネガティブであって、ネガティブのためのネガティブではない。だから、フォローは効果があるとして、彼女の行動に関して済んだことに関しての課金や、無理のない(主に飛行機を使わないで済む)距離での追っかけはするのである。



私が誰か芸能人のファンになるとしたら、橋本環奈のファンになりたいと過去に綴った。同じ県出身ながら、性格の違う地域で育った彼女のファンになることは、意義も意味もある。また、そもそも私も演劇人として地方から全国区になることの難しさは知っているため、同郷のよしみもあって応援する気持ちはある。『暗殺教室』の生徒だからというのもあるが、その前から、たぶん初仕事と思しき表現から彼女の存在は知っていて、応援する気持ちはもともとあった。



もしも私がもがたんぺとくっつけたなら、一緒に環奈のファンクラブに入らないか?というノリが私にはあったが。どうも彼女からするとまっぴらごめん、という感覚なのかもしれない。かもしれない。



推しでいうなら私は環奈推しで、人生に絶望してオカネだけ余るようなことがあれば彼女のファンクラブに入りたいと考えている。ただ、テレビを持っていないので今のところあまり熱心なファンではない。



もがたんぺの推しの定義でいうと、今の私の状況は当てはまっている。


私は環奈推しで、もがたんぺ推しではない。ただ、私が継続して言い寄っているのはもがたんぺであり、向きとしても集中しようとはしており、環奈推しは恋愛感情に関係ないと、今のところは言える。



だが、私にとって推し文化は私の次世代の文化という認識があるため、また、おそらくまだもがたんぺの云う推しの定義が芸能界における掟のようには徹底されていないため、恋愛感情が揺れるのである。幸せなことだと自覚している。そもそも無理だろこんなおっさん、で内心を終わらせていないのだから。



もともと、実る確率が少ないからこそそこで揺れようと思った芸能人への恋向きである。


新世代の考え方や行動が、どのように結実していくか。


さすがにそこは、こんなおっさんだからこそ、高みの見物をしたいと思う。










😐️