那向醒案如来

今回は大きな声では言えない話なので
標準フォントでお届けします。




ロングライドしたい気持ちと、雷を恐れて行きたがらない気持ちと、あとひとつ、なぜかタイミングではないと感じて動けないのとありました。筋肉痛がひどいから…というのとはすこしちがうのはちがうと思いつつ。


3時間くらいスマホでネットサーフィンして、でも頭は結構そのタイミング探しにつかってて。そしてついに見つけました。


私の場合は、ですね。

私の場合は、右足を後ろに蹴るようにすると、自転車考とは別のヘルメット自転車考でも、融和ないし共存して祈祷が続けられるとわかったのです。




祈祷。




私は基本的に、つねに自転車の左右非対称性を乗りながら是正する意識を持っています。自転車から離れているときでさえも、です。

これは私がまだ子供の頃、自転車が左右非対称であることに意識的に気づかないまま乗っていた頃から、意識的に気づくに移項するその際に、最初は他力として感じたことです。



知らぬが仏。自転車が左右非対称であることも知らなかったわたしがまるで左右対称であるかのように乗れていたのは、じつはそれを知っていて、知らぬ者に対して無事や安全を祈ってくれているひとが、この世の何処かに居てくれたおかげなのだ。その祈ってくれたひとのおかげで、知らぬ私は仏さま扱いされていたのだと。


知ったからには弥勒です。

今度は私が知らぬ仏に祈ってあげる番。


そうして、いつでも自転車に乗っていて、左右非対称性を是正する気持ち、微かにアンバランスな力みをもちつづけることをやりはじめました。それが私がいう、私の自転車歴、です。


天皇陛下はいつも国民の健康と幸福を祈ってくださる、と聞いたことがあります。

私は他者…しかも国民という圧倒的多数の健康と幸福まで祈るつもりはありませんでした。そこまで国民というものに親しみとか頼もしさとか、あるいは逆に頼りなさとかを感じていはしなかったので。

ただ、自分が自転車に関して助けてもらった以上は、せめて自転車に関して、乗る人の無事と安全を祈り続けよう。そう決意したのであります。




その祈りに関しては、私の骨格がどうのなんて厳密なところまでは詰めておらず、ただ一般的にヒトが自転車と関わるには乗るには、という前提のものでした。自転車考としてテーマ分類しているものです。

しかし競技者になろうというには、勝者もいれば敗者もいるということで、決してただ単純に、一般的な詰め方で祈るわけにもいかないな、と、これが私がアマチュア区分になってからの約8年間です。分類テーマとしてはヘルメット自転車考です。ここになると、私の骨格に基づくため、ときに一般的な向きとは真逆とおもえるほど違う向きも含むようになりました。


一般的な祈祷と個人的な願望とは相容れぬものなんだと、どこかで諦めたみたいな脳ミソでしたが、今回の発見は…、腸腰筋を鍛えたおかげでしょうね…上半身と下半身の連動をもって、一般的な祈祷と個人的な願望を由二存(ユニゾン)させることが可能と判明しました。




これでわたしは、一般区分としてもアマチュア区分としても、どちらでも皆さんの自転車走行の無事と安全とを祈れるようになりました。




祈り、とか、呪いとかいうものは、自然界が仲介しうるので、決して科学的に立証可能なものではないため、たとえばお前を呪ってやる!と言ったところでそれだけで違法行為になることはありませんし、あなたの出世を祈っているって言ったところで報酬がもらえると限れるわけでもありません。



ただ、力学的には決して脳内のマヤカシということにおさまる話しというわけでもなくて、つきなみですが、信じるか信じないかはあなた次第なところも多々あり、信じ方によっては決して物理的に破綻のある話でないのも確かなんです。ゆえに、呪われたことの仕返しをしてやる!とか、祈ってくれた謝礼をわたすよとか、そういう具体的行動を祈祷や呪術に関して起こすひとを、私は決してオカルト呼ばわりはしません。この辺が私が、世に陰謀論とよばれる話を風刺の意味合いありとして、ある程度寛容に構える源になっています。








やあ。

一般区分かアマチュア区分か、という黒白つけに忙しくて、時折祈れないことも増えてきたここ2、3年。これで晴れてどちらに向けても祈れることとなり、私の肩身の狭さはある程度改善されます。





というわけで皆様。今日もご安全に。





こんにちは🙂