那向醒案如来
対話は対して話すこと。
角度が一致する瞬間が少しでもあるなら、それは対話です。
会話は会って話すこと。
角度が一致する瞬間が一切なくても同じ場で一応存在を認識し合って話せば会話です。
会話に対話は含まれえますが、会話という言葉があるからには、対話に会話が含まれることがないように、わたしは会話のときは会話と表記しています。
A、ほとんど自転車は右に傾くのに車道左通行を義務付けられている、板挟みな乗り物。体力知力を可能な限り充全にして乗らねばならない。
B、ネジは宮大工の技能からすれば下衆だけど、この現代あちこちにつかわれている。反螺旋とか、垂直摩擦とか、そういった制動責任を問われるものだと覚悟して関わらないといけない。
この Aと Bを言っても「うん、そのとおりだね」って言われたことのないわたしは、いつだってだれと話したってほとんどすれ違う。どこかすれ違う。みな、難しいことや責任をとるべきことに関して、世間体からは考えが及ぶけど、物理や科学からはなかなか考えが及ばないからだ。
でも、それでもいいとわたしはおもっている。
バレーボールの床スレスレレシーブを、チームのうち誰か一人がやれたら、それで次に繋がるんだ。
だから、わたしが気づいていることは私の届く限り、ちゃんと拾おうと思っている。いつ定義されたわけでもないはずの、人類というチームのために。
ときにはネットを介してボールのはたき合いになる相手もいるとおもう。でも絶対に拾う気も返す気もない相手とラリーなんかできるわけもない。だからきちんと拾う、きちんと返す。それが、殆どが文化的なものでも…、少しでもスポーツ的な要素を含むんなら。コートに入ったならば、できるだけ頑張る。
実子誘拐されたことで、私はそのコートに入った。
黙っててもいい空間や時代や生活習慣にたどり着けるまで、頑張る。
こんばんは🙂