那向醒案如来


甥っ子姪っ子が現代日本の子供らしく、ゲームとYouTubeづけらしい。👓️🕶️。

私が子供の頃も TVゲームはたしかに中心の遊び方だったし私もそれを望んだ。

ただ私は地味に、遠くの友人なり街なりをたずねて自転車で移動距離を伸ばし続けていたので、ゲームに並行して自転車の能力を高めるということをやれていた。当時は YouTubeも無かったし。


子どもたちが奮起と忍耐と頑張りをやれるためには、いったいどんなルートや広場をのこしてやればいいのだろう。自転車で距離を伸ばしながら、とりあえずその答えは "自転車の左右非対称性の是正案で良好なものを具体的にみつけて提示する" これに尽かすことがほとんどだった。


家から河川敷まで🚲️で移動し、🏃‍♂️し、また🚲️で帰宅する。

自分としては、運動したい者としてすごく当たり前且つ、まともなことをやり始めたつもりだが、これを満足感をともなうところまでやれるクオリティーにするまで、自転車技能や自転車整備のほうは物凄くレベルを上げざるを得なかった。そうせざるを得なかった原因には、なんといっても、違法運転をする🚙たちの存在が大きい。彼ら彼女らのせいで、のほほんと走行できるレベルの自転車考にとどめてはおけなかった。いまここまでの技能や整備に高めるまではほんとうに時間がかかった。三十年前には無かった自転車部品を幾つも買い揃えたのだから、自転車業界の発展や進化も、それだけ必要だったという実情。これらは、とてもかんたんに、ホレ⭐️真似してみぃ、といえる内容ではない。




比較的かんたんに、街で生まれ育つ子どもたちへ野性の探求をできる余地をのこすには、🚙で違法運転しないということが大事である。それをしないように心がけていれば、最近でいえば電動キックボードなどでも、未成年であっても少し遠めの、奔放に動ける広場までの安全な移動が可能になる。


私はスマホを扱うとき、目から 30cm以上離すことはザラである。しかも角度をズラしてカメラと真正面に向かわなかったり、画面からの人工光をあまり集中して見つめすぎないようにしたりしている。


そうやって、つねに周囲の景色もチラチラとみながらスマホを扱うので、決して近眼にならない。視力が良くなったり悪くなったりの変動はあるが、決して運転にメガネが義務付けられるほどまでは、視力が落ちない。もう約16年以上、そうなのである。



日頃である。日頃の行いの、しかも秒単位〜時間単位での差異が、視力の良し悪しを変える。

視力が良し悪しにかかわらず固定されていれば、自分の人生を送るうえで心強い キャラクター にはなるのかもしれない。けれど、たぶん他人にそのひとの人生を送らすエールを送るチカラは劣ると思う。なんのことはない。人生にも、どうぞどうぞ、の謙譲の美が必要な部分はあるということだ。

電子画面に自分が得る予定あるいは得られなかったことの補填になる世界までがあるとは思っていない。それらの欠片があるだけだ。それら欠片は人生のヒントにすぎない。まったく未来をつかめるものでないとまでは思わないが、つかめるとしてもそれらは過渡的な、トンネルのような限定的なものにとどまるだろう。

電子画面に真正面から向き合って何になる。私たち人間は、ヒトとヒトとでこそ、なるべく真正面から向き合うべきなのだよ。







───ということを甥っ子姪っ子に端的に云うには、どうしたらいいんだろねw。








こんばんは🙂

✈️✈️✈️

今回、
タイトル回収できていない
気もするけど、

タイトルに見合う、
云うべきことを云った
気もする

…ので、没にせず。