そもそもひとはさすがに、言葉ひとつで評価できるほど単純ではない。


にも関わらず、せっせせっせと他者や自己を言葉ひとつで評しようとすると、当然何度も別の言い方を用意しなくてはならなくなる。


そしてそれは言葉の意味をじつは把握できていない、語彙力がじつは破綻、壊滅しているという証明になる。


ひとが新陳代謝する、動きもする生き物だから、言葉ひとつで評しようとしてもいつでも無理が生じる。


〇〇なひとは□□というひとは辞書だ。


分析的な建前で拡張的に評すれば評するほど、新陳代謝を諦め、動くことを辞めてしまうことのリスクに気づいていない。




インターネットという言葉を不特定多数に放てるツールを得て、複数形呪文を放ちたい気持ちは分かるが、無関係なひとまで巻き込む危険があるので、生き物が辞書を真似するのは避けたほうが良い。



さらにいえば、検索も可能な不特定多数に放てるツールがあって、熟語や自己の造語を勿体ぶってなかなか載せない(他者のそれや、他者のふりしたそれであればたくさん載せるくせに)という掟をはみ出さない、辞書や学術の態度を真似するなんて勿体ない。




どうせひとを評するリスクを負うなら、そのときこそ、新語をバンバン発すれば良い。辞書の真似なんかして可能性を硬直させていないで。







おはようございます🙂