徳側家康…徳をつむ側にいてこそ家はけん康、ともじりたいくらい、昔々のひとびとは 徳 のために働いた。徳のために生きた。


平均寿命が伸び始めた頃、それでもだいたいのひとは死ぬのは45歳とかそんなもんだったんじゃないか。


もっともっと昔のひとなのに80歳すぎまで生きられたブッダ、彼が昔々の人々から尊敬されたのは、なぜインフラも整っていないような無職や乞食といっていいような超大昔のひとが、虎も象もうろうくようなインドでそれだけ長生きできただろうか、まさに徳のあるお方の為す偉業!と、そういうことをちゃんと理解していたからだろう。


徳のために生きて、戦もほぼしなくなった人々の平均寿命は伸び始めた。さきの世界大戦も、当時のひとたちの考える徳に基づいて戦ったものである要素は少なくはなく、実際戦後まで生きられた当時のひとたちの平均寿命もさらに伸び続けていた。


しかし、この現代になって、なんと江戸時代からずっと続いてきた平均寿命の向上が折り返し、低下を始めたというではないか。

これはつまり、ひとびとが徳のために働かなくなった、徳のために生きなくなったことのあらわれだと私はみる。



なにかというとオカネがないことを言い訳にしたり、なにかというと目に付く者の失敗をただ責めるだけで自分が上になったような安堵を得てそこで終わってしまったり。徳のためではなく、誇りやカネのために働いたり、生きたりするようになれば、それはすなわち他者に関しては生きていても死んでいても構わないという態度なので、結果として全体の生命力が減退し、平均寿命が下がるのだ。


徳のために…とは、良いことをした*自分はどうだかわからんが、これで他者がそのぶん長生きしてくれる*もしかしたらその長生きできるようになった他者がいつか私をも長生きさせてくれるかもしれない。───と、こんなふうに腹落ちして生きるということである。

こういうことは、募金よりも確実性をもって世の中を良くする。何が徳に値するか、その良し悪しは、昔々のひとたちはブッダや先祖に聞いていただろう。


目先のカネやマウンティングにとらわれず、本質をきちんと見抜こう、読み取ろう、推理しよう、聞き取ろうとすること、それが、徳を積むための手立てになる。

それが生命力を育み、新しい命を誕生させる精力にもなる。


年上だからってだけで敬う必要はない、と、いまどきの若者たちはデフォルトでそう思っていそうだ。欲にまみれて本質を追求してこなかった年上に対しては、そう思っていいと思う。しかし、そんな年上でも、年上がなにもせずに年上になったと思っているとしたら大間違いだ。何が 徳 になるか、年上から少しでも聞き出そうと貪欲にならないのであれば、生命力は減退することだろう。





結婚したいひとはすればいいという考え方、生き方は実は、結婚したいひとは何度でも結婚してたくさん子供をつくってくれるだろうから、結婚したくないひとはそのひとたちの生命力にあやかっていればいい、と、結婚離婚を繰り返す人の悲喜こもごもにおんぶにだっこする徳のない生き方をするということである。



それじゃあ平均寿命は下がって当然だ。
子供つくるのだってな、オカネという意味でなくて、タダじゃできねえんだからよ。



まだ持っていないひとたちは、老若男女問わず、ぜひ 徳 という考え方をもってほしい。

最初は、スーパーの、徳用パック、から入るくらいでもいい。とにかく、徳という考え方を。





べつに長生きできなくてもいいし、他人が長生きできるかどうかなんて知ったこっちゃねえし、ってな、そんなシケたツラ、オレに見せんな。






おはようございます🙂