自他問わず変わり目を言語化しませんか。


そうすれば公平性も保ちやすいし、報酬も精確に分けやすい。


国の人口が増える時代には親子が相互に変わり目の目撃証人でいられました。


でも、国の人口が減る時代に、手放しでそれをやろうとするのは無謀、無策です。



都民が移民は嫌って国民の流入は歓迎しがちなのは、その目撃証人が多くなるから、暮らしやすくなるから、なんでしょう?言語体系が違うと目撃証言してくれなくなるから、移民は嫌っているんでしょう?


けれど、都会に出ていかれてしまう田舎のひとたちはずっとずっとその目撃証人不足でたいそう苦労するハメになっていたんですし、いまもそうです。


それで田舎者に都会者を恨むな憎むななんて、無理があったんですよ。




変わり目の言語化。

自分のぶんでも他人のぶんでもどっちでもいいんですよね。


少子化に抗うための野生力を探求する気が無いんなら、せめてそれくらいやりましょう。


言っておきますが、不埒(浮気)や不倫は野生力とは対極にありますからね。

片方の安定感にぶらさがってもう片方で手放しに溺愛し合うとか、そんなもん野生で許されるエネルギー配分じゃねーですから。








おはよん🙂