テニスプレイヤーならば部活レベルでもラケットを持つほうの腕が太くなるのは、学生時代に見た。


自転車は右側が重たいので、そのぶん左側を鍛えて太く、重たくすればバランスがとれるのではないか。考えたことは何度でもある。




しかし私はそれをやらない。
なぜか。




自転車の左右非対称性というのは、決してギアクランクチェーンの問題だけではないからだ。





自転車には、そりゃあ自動車よりは少ないが何箇所もネジが使われている。このネジというものが左右非対称であるというところも、私は睨んでいる。


ネジは螺旋を描いて入っていく。

このとき、螺旋のことをあまり仔細には考えずに、ネジの芯の向きにチカラを込めるから摩擦が生じて固定具として機能するのであって、ほんとうに螺旋のかたちそのもののチカラを込めると摩擦があまり生じなくなり、固定具として機能しない。ゆるみやすいネジになってしまうのだ。

ではそういう本質をもつネジに 乗る ということはどういうことか。

乗るにおいて、最も素晴らしい向きは、逆螺旋である。

ネジが描く螺旋の対極をとるような逆螺旋の力線をつねにネジ部に与えながら乗ることで、ネジのゆるみにくさをマシマシにできる。

ためしに安全は確保したうえで、ネジの螺旋そのままのイメージで、順螺旋の力線をネジに与えるつもりで乗りつづけてみるといい。

身体は解放されていく心地と、気持ちスピードアップが図れるだろうが、どこかのネジが信じられないほどにゆるんでしまうのがきっと解る。



自転車の左右非対称性というのはネジの分だけ数多く存在しているのである。




わたしはギアクランクチェーンやネジ摩擦などの左右非対称性の是正まで冴えた意識が浸っている乗り手に対しては、センスがある、という。それなしにとにかく力任せでいる乗り手に対してはセンスがない、という。速度に関わらず。力任せも結果は出るのだ。むしろ競輪場などは選手がなるべく細かいことは考えずに力任せに走ってくれていいよう、数々の恵みを多くの方々が用意してくださっているのだから、こうして細かいことを考えまくる私は試験に落ち続けて当然といえば当然なんだ。


しかし、私は競輪がテレビにうつる以上、不特定多数のあまりにも多い人数に見られる以上。そういったことまできちんと理解しコントロールして乗れるようでなくてはオカネをもらう資格は無いと、これはもう主観でそう考えているため、そこもひっくるめて技能向上を図ってきた。たとえば女子供にかんたんに真似されてしまったとき、事故が起きてはならない、とそう考えるわけだ。それで、遵法精神を保ったままの 60km/h超えという大変なルートの登頂を、アマチュアとしてひとつのゴールにしていた。



落車多発問題を解決するには、上記のようなコントロール能力は最早、技能としては顕在意識にも昇らないような常識中の常識になっていなくてはならない。そのためには、どんなに多くの関係者の方々が恵みを差し出して下さっても、いやいや勿体無い、恐れ多い、とかんたんには頂戴しない。本質のための謙虚さ。そういうのが日本人てもんじゃなかろうか、などとも思うわけで。








レベル、松田さんの芯出しの動画を少し見ました。

当然、工房では上記のようなことまで考えた、わざとくねらせたフレームをつくるわけにはいかないのだというのは察せるつもりです。

自転車は左右非対称だ、と言えるのはフレームで芯を出してくださるビルダーの方のおかげといえる面もあります。


それを承知の上で、いつか左右非対称フレーム、芯が複数ネジのためにある、しかしほとんどが溶接でネジ固定箇所のほとんどない自転車、をつくって乗ることは、小さな夢としてまだ諦めないでおきます。





おはようございます🌞