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たとえばの話。


キミが気づかずにボクを攻撃して去って、怒らせたとする。

そのままキミに気づかせないまま、ボクは怒りの反撃を果たすこともできなくはない。

気づかせないほうが寧ろ、こっそり近くまで寄って復讐することは容易くなるだろう。


復讐は法律で禁止されている。

しかし、このヨノナカ、遵法精神を保たずに、違法行為することを皆やっていること、むしろやらねば危ないことなどと言って、禁止されていることを何度でも、しかも意図的にやるやつらなんか大勢いる。

ボクがその理屈にならって、法律なんて所詮他人の極めたルールよ、なんて同じ調子で、禁止されているはずの復讐を果たしたいならどうするだろうか。

当たり前に言って、黙って完全犯罪を目論むだろう。あるいは警告もなしに勢い任せで、自分もろともといった復讐を果たすだろう。



つまり、気づかずに攻撃して去った者に対して、ボクは怒っているんだよとか、法律は守らねばならないよとか、攻撃された者が反撃に出る前に気づかせて、そして法律を守ろうとすることは、ボクの器の大きさとか、優しさというものであろう

そこで気づかず攻撃したキミは、気づいてなかったのだから、言いがかりをつけられたと勘違いして、または、うすうす気づいていたとしても謝るということが自分を低めてしまうことだとそれも勘違いして、難癖をつけるなと、さらなる攻撃を加える。

そうなると、全面戦争の開始だ。

戦争なんて簡単に起きる。

まぁ、キミとボクってのがひとりとひとりで丸腰と丸腰ならば戦争と言わず、喧嘩というに止められはするけれど。




上記下線部は、そこだけいきなり聞くと多くの人が、なんだこいつは/自称で優しいとか言うやつに優しやつがいるわけないだろ/サイコパスか、などと思うことだろう。怒りを我慢しながら自分は優しいのだ、などと言っていれば凶悪犯か、精神異常者にみえて仕方ないことだろう。


人との関わりは、そういう いきなり の危険をつねに孕んでいる。



気づかせずにいきなり復讐を果たして気持ちよくなるのと、我慢する様子をいきなり他人から見られて気持ち悪くも立場が少し悪くもなるのとどちらがどうであるか。

復讐を果たして気持ちよくなるのは一瞬の可能性がある。逮捕されて罰せられれば、そもそも罰せられるべきはアイツなのに!などと、よりいっそう気持ち悪くなる恐れがある。しかし、完全犯罪をやり遂げれば、そうなることもなく、気持ち悪くなることはない。



つまり気づかず攻撃したキミに、キミは攻撃したんだよと気づかせず反撃することは、一種のギャンブルである。

気づかず攻撃したキミに、キミは攻撃したんだよと気づかせる行為は、少し立場が悪くなるようでも、少しで済むので、堅実なサラリーである。

そして重要な点が後者にはある。


気づかせたあと、もしかしたらキミが「そうだったのか、たしかにその状況ならそうなったね。キミを攻撃してしまったね、ごめんね」このように攻撃したことを認めて謝るかもしれない可能性は、ゼロではないということだ。誰もボクの立場を少しも悪くすることなく、キミの立場も少しも悪くすることなく、まるくおさまる可能性だ。


その可能性のためには、短絡的か計画的かの、とにかく復讐したい気持ちは我慢し、気づかせる努力をせねばならない。攻撃した人が多いのであれば、長い時間かけて、コツコツコツコツ、少しずつ少しずつでも気づかせる努力をしつづけねばならない。そうしてやっと、サラリーにボーナスがつく可能性をつくれる、というわけだ。



上記は今回のブログ記事としてはたとえ話の位置づけだが、つまりキミの攻撃というものを低空飛行にすれば、具体的にボクがそれを受けて考えたことであり、とくに後者を選択して生きてこれたし、生きていこうかという現実の話である。





さて上記をたとえ話に、

今回何が言いたいかというと。



ボクが上記において、どの時点で、だってヨノナカそういうモノだろう?という感性を持っただろうかというところだ。

おそらく、せっかちにも早いうちにその感性を持ったなら、ボクは犯罪者として投獄されつづけているか、死刑になって、あるいは自殺して、この世に居なかったことだろう。どこでその感性を持ったか。


復讐は法律で禁止されている。

↑ここでその感性を持っている。

だってヨノナカ、復讐は禁止されているから、やりたくてもやらないものだろう?

───と、このようにその感性を用いている。



さて、では、攻撃したキミはどの時点でその感性を用いているだろうか。

そこがボクとキミの精神的な距離感を決定する分岐点である。


キミのことはキミがいちばんよく知っているとして、その答えはキミがキミの感性で、出したいように出すのがいちばんだとして。だからキミはその答えがきちんと出せるなら以下の空白より先は読まなくていいとする。

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ここからはボクは仮定や推理で話をつづける。



キミは攻撃になることをまったく気づいていなかったとする。裁判でもそれは公共の福祉と認められたことで、傷つけたいという悪意もなければ、そもそも傷つけているかもなんて想像もしなかった、と。

その場合に、ボクの優しさによって気づかされたあと、どんな感情を選ぶか。

せっかく 知らぬが仏 で気持ちよくそれを行い、攻撃しているなんてやましい気持ちを持つことなくいられたのに、それを気づかせるなんてゼンゼン優しくなんかないよ。知ったことか。どうせ二度と会うこともないし今後も攻撃させてもらうよ、か。この場合、精神的な距離感はむしろ烈しく近接する。ボクのほうが復讐したくてたまらなくなるからだ。

ああ、たしかに気づかされた。よく気づかせてくれた。ありがとう。その優しさに感謝する。…でも今後もそれはやっていくことで、申し訳はないといいたいけれど、こちらも生きるために仕方なくやっていることなので、どうか怒りを鎮めてもらいたい。怒りを鎮めるためにこちらに出来ることがあれば言ってほしい。つつしんでそれを行う、か。この場合、精神的な距離感は付かず離れず安定化する。ボクは復讐を忘れることができ、キミの望む距離感にコントロールする余裕を得る。



ここにボクは、恋愛感情をしのばせている現状だ。恋愛感情を混同させていると言っても合っているのかもしれない。だから冒頭をたとえ話とした。では冒頭がたとえ話であるとしたら、果たしてそのたとえ話以降の記述についてキミは考えなくてもいいのであろうか。

ボクはキミにそれを考えさせまいとして、たとえ話と言っているわけなので、キミがそれを考えずに、そして考えないままボクと結ばれるのであれば、ボクとしてはそのまま考えずにいてくれると、少なくともボクひとりの救済にはなって、ありがたい話だとなる。この場合の精神的距離感は、ボクと結ばれることに関するキミの満足度に依拠する。

しかしキミがボクの思いも理解せず、気づかされたからには考えて、たとえ話とも思わず、それでボクと結ばれたとしたらどうだろう→キミはボクと仲睦まじい暮らしをしているなか、突然ボクに牙を向けられて復讐されてしまうかもしれない。小熊を飼いならしたつもりが喰い殺されてしまう飼い主のように。その線ではキミが自業自得というもの、業というものをどんな大きさでとらえているかが肝要になってくる。業を大袈裟にとらえていれば危険だし、過小評価していても危険だ。精確にとらえていればボクからの復讐は、大した被害にならずに済むだろう。たとえば、こーいつぅ、という指ツンツンとか、デコピンくらいで済むだろう。つまり、この場合の精神的距離感は混沌とする。

もうひとつある。


ボクはキミにそれを考えさせまいとして、たとえ話と言っているのだが、キミがそれを考えずに、しかも考えないままボクと結ばれもしないのであれば、ボクの恨みはまた別に向かうということである。そんなキミを育てた親とか、そんなキミに影響を与えた人たちとか、そんな方向に。この場合ボクはキミから離れたつもりでも、キミはボクを引き止めなくてはならずに精神的な距離感は詰めねばならぬことになりうる。親とか知人とかべつに私のみのまわりのひとが恨まれてもどうでもいいよ、とかでない限り。



では機械的にもうひとつ考えてみよう。



キミがボクの思いも理解せず、気づかされたからには考えて、たとえ話とも思わず、それでもしかしボクと結ばれなかったならどうだろう→ボクはやはりまた恋愛感情の向ける先を最初から考え直すひつようにせまられ、もとこだとか過去につきあっただれかだとか、ブログで名を挙げたひと、あるいは新しい出会いだとかをまた上記の悩み付きで求めることになるだろう。しかしそのとき、キミが考えてくれるようになっているため、ボクの運命は以前より少しは幸運な方へと拓けるようになっている。ボクは気づかせた甲斐があったということになり、ただ、キミと結ばれなかったことは残念におもいながらも、また悩みながらも忘却の才能を駆使してほかへ向かっていくだろう。キミが考えてくれることの運命の拓けかたが、ボクにつきまとう宿命の閉塞に勝ることを祈りながら…。このとき、精神的距離感は不思議な配分で、近くにも遠くにもなっているだろう。キミのある部分はボクでありつづけ、ボクのある部分はキミでありつづけることになる。近いと言えば近い、遠いといえば遠い距離感。






さあ、キミはどれを選ぶ?





その前に、読むのが大変で読みきれないかなw?


凄いだろ。これだけ自分で把握して書けるんだから。


オッケー牧場どころの把握じゃないよ。


オールマイト大牧場だよw。






かんたんな結論があってさ。


つまりボクは、キミがボクでないひとと恋愛関係になっても、ボクはそれに対してなすすべがないってことくらいは、この卓越した客観性で理解しているってことなんだよ。


もしもそのカレが、べつに芸能人の括りに属さなくても、都の格差拡大向きの、東京の甘さならではの生き方でキミと惹きつけあっているんだとしたら、ボクはせいぜい、格差拡大に反対するしかないってことだ。




ボクが格差拡大を訴える理由は、キミが欲しいから──なのかもしれないね。



違うとは思うけど。




少なくとも、コレデイイノダだって私は芸能人なんだから、というところに甘んじててほしいわけではないのは、確かなんだなー。