ちょっと、難しい、長い話ではあるので、今回はフォントサイズ小さくしてみますか。





脚本は脚本家の一存で変更されるわけではなく、プロデューサーふくむ複数名の合議(会議)によって 本打ち される、という記事を読んだ。

これを知らない漫画家が脚本家への敵意を募らせてしまったのではないか/本来連帯すべき個人事業主が敵対してしまい、それぞれの味方であるべき組織(テレビ局、出版社)のほうが連帯してしまったのが不味かった、という論調だった。


『忍たま乱太郎』では土井先生の説明を途中まで聞いて飛び出してしまう乱太郎たちの早とちりが、命がけのシチュエーションにまでミッションを難しくしてしまう様子が度々描かれている。絶対に死なない平和な漫画だからアニメだからと引いてみれば、ただの面白いマンネリズムだが、現実的には命がけの現場ではしばしばヒトは亡くなるものなので、早とちりはとても怖いし、やるせない。



知らない、ということを、むやみやたらに恥じると早とちりすることになる。自分のライフワークの分野において命に関わるポイントを知らないことは恥じていいと思うが、その他の分野に関しては知らないことをそう恥じる必要はないはずだ。だれでも気づくべきに気づけることは尊くて、気づかないのがまず当たり前なんだから。だいたい人それぞれ、やるべきことが多いんだから。


望む望まないに関わらずある程度ライフワークとなっていることに関して、新しい知識を仕入れてそれに准ずるとき、そのライフワークに続いてほしい者にその知識を拡散する必要がある。

なにせライフワークとなっている者のほうがそれは当然命がけでその知識を仕入れていくわけなので、その者はその分野の識者になる。識者が情報を出さずに自分ひとりのものとするのは権益を独占、寡占しようという行為であり、そういうのはライフワークでやることではない。命がけにならない競争で、資本主義でやるべきことだ。



リープ期、という言葉を学んだ。

解説するページを読みながら、もしかしたらスマホを持っていて検索魔になっていた元嫁は、この言葉を調べて憶えて准じたのかもしれないなと思った。そして、その言葉を知らないで赤ちゃんと接する私に敵意や憎悪を向けたのではないかと。


私は自分自身が赤ん坊であった頃の記憶が結構ひとより多くあると思うので、それを手がかりに育児に関われば良かろうと思っていた。増え続ける予防接種をみて、医者が聖職だった時期は過ぎたなという感覚でもいたので、なおさら自分自身の、赤ん坊の頃の記憶は大事な、希少価値のあるものだと思った。

昔のひとたちはそういった記憶や、また、兄弟姉妹などの年下の、赤ん坊の頃の記憶や、近所の赤ん坊を世話した記憶など、そういったものを動員して育児に役立てていたはずである。

私にも子供の頃にそういう赤ちゃんと接した記憶は幾つかあり、私の考え方は決してただ私自身だけの記憶から成っているものではないので、無にするほど謙遜とかするべきでもないと。ひとつの芯として保ってよいものだと、これはいまもそう思う。



ただ、育児に関して正解を欲しがるライフワークとなった母親などは、いまはスマホがあるがため、とにかくもう検索魔となって、検査熊となって?調べた正解から外れるのであれば配偶者すらも見下し軽蔑し敵視するような事になっていると思う。


リープ期、を知ることで、そういうものなんだな、と、大人が無理に泣き止まそうとせずに余裕をもって見守れる、とあった。ただ、余裕がないようでもべつに赤ちゃんを傷つけたり殴り殺すまでしない、おー、よしよしよし、べろべろばー、とか、なく子はいねがー、なく子はいねがー、とか。そういうのって、べつに文化としてあってもいいものだと思っていて。リープ期の説得力によってそれらの文化を完全に廃れさせてしまう必要もないのではないかと私は思う。そのときどきで選んでみても良いのでは?と。


そしてまた、リープ期を知っての対応という説明に准ずるのであれば、やはりそれは配偶者に端的にメールなどして拡散、共有してほしかった。

当事私はスマホは持っておらずプリペイドケータイのメール機能までのものなら持っていた。ネット検索はできないものだ。元嫁はスマホを持っていた。あれこれ調べていた。しかし、自分が調べたことを私に教えたこと、拡散、共有したことは一切無かった。




調べて得た正解というものは、どんなに客観的説得力があっても他人のもたらすイチ意見に過ぎない。

説得力があって准じざるを得ないのであれば配偶者とは先ず共有すべきだし、そうでなく秘密にしてしまうとそれは他意が生じる。配偶者でないひとと連帯するという他意が。

こういう機微をわかっていないから、多くの女性が私から、男系女子、といわれるのである。

私は女系成分が多い男なので、そういう機微にもよく気づく。





配偶者でないひととの連帯を数多く重ねていけば、当然配偶者がいつまでも変わらず愚かで孤独な人間に見えていくだろう。つまり、どんなに調べた知識に説得力があっても、ときに准じない、愛のために准じないというような選択も、ヒトには必要なのである。私が調べた知識は私だけの武器で利益だ、などと考えて拡散、共有もできないようであれば。




調べずに得た知見は、調べて素直に准じた知見よりも濃厚な答えになる。調べずに知見を得るのはとても苦しく、誰かがやったことの二番煎じとか二次利用とかのようなやりやすさは無いし、ほかでそれを知っていて実践しているひとからすれば人類史的な二度手間のような愚かさにも見えるが、それは揺るぎない生命力、愛ある答えとなるので、その件では劣っても、別の件で効いてくる。筋トレするといっとき弱るけど超回復すれば強くなれるのと同じだ。それもまたヨシ、なのである。

テレビでサッカーを観戦して応援していても、それだけでサッカーのプレーがうまくなるわけではない。いいなと思ったプレーを真似て練習してみて、ここは使えるなとかここは自分には合わないなとか、調べたことを試して実践することで身につく。だから、もし配偶者にも同じ育児法を実践させたいのであれば、少なくとも優位性をもって調べられたことは端的にでも拡散、共有すべきである。


知らないということを恥じるな。
知らないということを馬鹿にするな。
こいつ知らないなと思ったら、よほどの企業秘密でない限りはさっさと教えろ。

君がそれを知ろうと思うからには、それなりの脈絡、強い体験に対する必然があってのことだったはず。その強い体験が他者はどうしてもできないことであるなら、教えないことは他者の疎外でしかない。


土井先生のようにとうとうと教えても、忍たまのように聞く耳持たない場合は、さすがにどうしようもないけどね。







おはようございます🙂