私は冤罪をふっかけられやすい人間である。

罪を犯したことがないわけではない。

しかし、それよりもあきらかに何倍も多く、冤罪をふっかけられてきた。

たいていは命に関わらない他愛のない冤罪なので、私としても我慢するよりほかなかった。

ただ、実子誘拐にまつわる、 DV夫呼ばわりだとか婚姻費用払っていないだとか、そういったこと…離婚は子供の寿命を縮めるなんて話を聞けば…命に関わる冤罪になるだろう。


嫁が壊したクルマのドアは未だに私の運転席の右後で凹んだ形のまま現役なので、ああ、この運転手は乱暴な運転をするひとなんだなと思われていればそれもまたそれなりの冤罪である。


男性からも女性からも濡れ衣着せられたことはあるが、比較的、男性は謝るのである。しかし、女性は謝らない。それを体験してきた。




日本人女性の悪い点1、誤解でひとを動かしてもあやまらない。

日本人女性は、商品を買うのにオカネを払っても、ひとを動かすことに関しては、オカネを払わねばならないのだと思っていないフシがある。

歴史的に女性に雇用機会があたえられてまだ年数は100年いっていないため、そういう発想になるのは仕方ないと思ってやることは、女男平等に反する。

とはいえわたしもなんどもそこに思いをはせて、女性の振り回しに関して目を瞑ってはきた。だいたいかんたんなゆるしかたとしては、女性には体力がないのだからそのぶん気も回らないし、そのぶん支払い能力もないのだ、仕方ないのだ、と、こんな具合いだ。

ただ、どうしても細かい冤罪に巻き込まれ続けると、ふーむ、やはりこの人たちは男の中でも比較的女系成分の多いわたしが目を瞑ってくれることを潜在的に嗅ぎ取って、あれやこれや妥当でない責任まで押し付けてきて、男女平等と男女格差の辻褄合わせをさせてきているな?と、わたしもイヤになってくるため、今回は考えたのだ。キープしたのだ、日本人女性は最低最悪…という気持ちを、20分未満ほど。



そうしてみえた、1。そして2は、気の大きさを相手によって変える。これだ。



好きな人の前ではどうのとか、あのコは男子の前ではぶりっ子なんだよねとか、それを噂話すること自体が、相手によって気の大きさを変えている証左なのである。わかるかなー?

とある動きに関して、女性はどうやら、すべて理を詰めており抜けめはないと思いがちだが、私からみたら抜けめはあるのである。

行動をするとき、記号的にそれしかないという証明まで同時に果たすときには、察せよをほぼ全廃し、消去法で詰めていく必要がある。察せよが寸分たりともあればそれは理詰めになっていないのである。

数学の証明の話である。
公理と定義とをつきあわせ、定理を用いて証明する。

これは現実の、3次元の話でも可能なことというか、ときに必要になってくることで、なにが公理でなにが定義か、そしてなにが定理になるかはより細かいところまで掃除をして、場を観察して、行間を支配していかねばわかることではないのである。

だからどんなに偉い人でも有名人でも掃除を怠ってはならんのである。

どんなに肩書きを与えられても掃除を徹底できねば、行間は支配できない。

代わりに掃除してくれるひとを敬うべきとまではいわないが、少なくともけなすべきではないし、いうなれば掃除を自分ができなくて悔しい、と思うべきなくらいなのである。



私は状況を理解して発言したはずのことでも、女性に「違う」と口先で言われてしまえば、では違うということに則って先を見てみようじゃないか、と構える。

いやいや君こそ違うよと言ってあげられるほど、いまの私の心に余裕は無い。そんな余裕は長年の低空飛行区での忍耐や奉仕的演劇活動などでもうすっかり費やしてしまった。そこにきてさらに実子誘拐である。あるはずないだろう、他人の間違いをすぐさまその一瞬で言語化して正す心の余裕など。


そしてほんとうは誰もにそんな心の余裕はないのである。

だからこの人になら強く言っても良いな、とか、この人に強く言うのは怖いな、とか、そんな別を一度ならず何度でも繰り返し用いてしまうのである。こと、それはじつは女性に多いのだと私は見抜いた。


ふだん女性は連帯して安堵感を構築していくぶんだけ、ひとりのヒトとしてべつのひとりのヒトと向き合うのがとてつもなく心細いというわけである。なので、精確さについて議論をする忍耐力に欠ける。あなたが悪い、を6割、わたしが悪い、を4割、とはじめから過失割合を決め込んだり、さらにそれすらメンドウなひとは表立っては私がすべて悪いをいうけれど、内心は相手がすべて悪いと思っている…。





女性といえども男と肩を並べて仕事をしていくのであれば、男ならばその余裕はあるはずだなどと考えてはいけない。言葉を選び、精確さを心がけ、過失割合を客観的に見いだせるまで、「それは違う」という単純かつ強力な口先の盾を出すのは控えるべきだろう。

この、2は、女性によくある傾向を言ってはいるが、連帯して安堵感を構築するすべての生き物に言えることではある。



私は、眠れる羊の皮を被った死神である。

ほんとうはもっと繊細で複雑な心情も持ち合わせてはいるが、こと、職場とか、外とか、そんな場所ではそのようなものだ。

眠れる羊だと思って接するのも不精確だし、まさか死神だと思って接することなど思いもつかないだろうから、それもできずに不精確。

私がいつまでもわかりやすい成果を出せないのと同じで私に接するひとたちもいつまでも私という人間性を精確には言い表せない。



そういう意味では、私を魔王と呼んだ元嫁は、わりといい線ついていたのである。比較的精確だったのだ。




とまぁ、いま話しているのは日本人女性がなぜ最低最悪に甘んじているのか、それは解決しえぬ問題なのかについてなので、私のことはそこまで掘り下げないが。



謝ったら死ぬ病、と揶揄されるほど、口が立つ女性ほど冤罪を作った際に頑なに謝らないのは、各地各分野で目撃されているだろう。

昔、日本の武士が、謝ることを切腹で証明したという風習が、ここにきて現代女性を追い込んでいるようにも思う。


つまり、昔の内助の功に徹していた女性は切腹による謝罪は一切しないが、切腹をさせる謝罪は間接的にであっても頂戴してきた側である。

それが、女性も経済的自立だとかいって、雇用機会均等だとか、なんなら肩書平等もめざして(婚姻費用分担平等はほとんど言及されぬまま)女性も 外 に出るようになった。

とすると、女性は男性に虐げられてきたぶんは男性を虐げたいとすることもあれば、男性が切腹死をしてまでその手の秩序を守ろうとしたこと、それをせねばならないのではないかという、呪い、だろう。呪いにとらわれるようになったと云えるだらう。


私の言葉はたかだか40数年の戦による人殺しもしなくなった腑抜け男性の、軽く、無視してよい戯言と思われる事はほんとうのほんとうにザラだったが、じつは私の女系成分多い感性からは、歴史的にきわめて精確な言葉がでていることがしばしばある。


私は連続性を好むため、まるでその重要なことばがぜんぜん重要でないかのような口調でいうことなどよくあるわけだ。まあどうせ、これはとても大事なことだからね、と前置きしてもまともに聞くような殊勝な人間性は、質は悪くても飽食が容易くなった現代においては、どこでも育てられてなどいないようだが。



女性に多く見受けられがちな、謝ったら死ぬ病。

これは、謝る言葉には種類があることを見落としているから罹る病気であると言ってあげよう。


謝るための言葉は、

ごめんなさい だけではない。
すみません もある。

どちらにせよ、反省を証明するだけの改善まで考えがおいつく必要があるが、とりあえず、ごめんなさいのほかにすみませんもあるということだけ覚えておけば、女性は呪いから逃げ切ることはできるはずだとおもう。


解説しよう。


ごめんなさい、は、免じなさい、許しなさい、と、悪いことをしたはずの側がなぜか上から目線で罪や失敗を自認した表現をするときの言葉である。つまりこれは、怒りを鎮めなさい、と、相手に命令する言葉なのである。

すみません、は、なすすべがないとき。自分の罪や失敗であると認めたうえで、しかしどうにもやるせない事情があって仕方がなかったといいたいけれどいえなくて、また、これからそれを繰り返さないためにはどうしたらよいか逡巡しているけれども思いつかないとき。せめて相手の怒りを浴びせられても一通りは仰る通りと認めますよ、と、相手に命令はしない言葉なのである。


つまり、ごめんなさいを言うときというのは、改善の自信があるときにしておくべきなのだ。もうすでにどのように反省してどういうふうに変わることでその繰り返しをしないようにするか、それがおよそでも感覚でも、もちろんハッキリとでも、みえているときに使うと適切で。そのときにいうごめんなさいは霊力がこもり、きちんと相手の怒りを鎮めさせることができる。

その逆のときは、すみませんを言えばよい。そうすれば相手の怒りもまた霊力なのだから…、昨今の流行り漫画でいえば呪力なのだから、呪力を向けられるけれども素直に謝ることでそれをアーシングのように流して逃がして、身体を壊すまでに溜め込まずに済むのである。


そうやって、みえる未来、みえない未来によって、命令形の謝罪文句にするか、非命令形の謝罪文句にするか、そこだけ気を付けておけば、なにも謝るからには死なねばならないなんて、昔の武士の習慣を踏襲する必要はなくなるのである。


🔍(←ごめんなさいとすみませんの違いについて調べたけれど、続けます)



そして、どうしても自分が悪くないと思いながらもいちおう謝ったテイにしたい場合にこそ、すません、を使うといい。Excuse me、に、該当するのが、すません、だ。

冤罪をふっかけられているときには、自分を悪いと微塵も思ってはいけないわけだから、そういうときにわざとスラングである、すません、をつかえば、どちらの霊力も呪力もどちらにも当たることがない。怒りは完全にすれ違い、冤罪もすれ違い。正義を気取りたがる気取り屋の、時間稼ぎの意味すらもなくなるだろう。




私は、正社員とやらに、なったことがない。期間の定るところのない雇用契約ならつい最近結んだ。両者は本来法的には同等の社会的信用信頼を受けているはずの者たちである。いわゆる正社員は俗文化の割合が豊富、そうでない後者は理詰めの割合が豊富であると考えて良いと思う。



いわゆる正社員経験がないからか、申し訳ありません、という言葉を、ほんとうにつかったことが私は少ない。ないといえそうなくらい少ない。

私は、申し訳ありません、というのは、ビジネスシーンだからとかじゃなく、ほんとうに言い訳になるようなことすらなにもない自分にとっての完全失念、相手にとってはもはや向けられた悪意といった失敗や罪に関して、自認して謝るときに使うことばだと思っている。つまり、相手も自分も両方霊力ある生き物だと認識していなかったという、最大限に不味い失敗や罪に使うべきものだと。

愚かな言い訳があるときは言い訳を言って罵倒されるほうがよほど、すみません、てな意味になるではないか。

言い訳が賢くて行動しさえすればきちんと反省と改善にまでつながるというときには、ごめんなさい、の意味になるではないか。

申し訳ない、は、そういったダブルミーニングで、しかし、必ずちゃんと意味が言葉に連れ立っているときにつかうべきものだと。でなければ慇懃無礼にしかならないのだと、私は考える。








女性は、上記の4つの…少なくとも、ごめんなさいとすみませんの2つの謝罪文句をつかい分けるようにしたら、謝っても死なずに済むはずだ。

謝ったくせに死ぬのは、死ぬことと見つけたりなどと非公開のはずの書物で語られた武士の世ならいざ知らず。現代においては卑怯とすらいえる、自分自身への殺意や攻撃性である。

謝るなら、生き延びるために謝れ。

生き延びるためには、せめて、ごめんなさいかすみませんか、そのどちらかの分別くらいはつけて発声せよ。




そうすればきっと、男性の見た目にまどわされず中身を透視して、気の大小を相手によって変えずに済むようになっていくはずである。





女系成分たっぷりな水本樹人がそう云うんだから、そこは間違いないよ。


僕を信じて。














こんばんは🙂




新時代だ。