昨日、帰宅してみつけた。

こないだの地震のせいもあるのか、キッチンの部屋明りの行灯?間接照明化する電球カバーがひとりでに落ちていた。

ツメがかかる部分がすこし削れてゆるくなってみえたが、もう一度持ち上げてはめ込んでみた。


が、寝ているあいだにまた落ちた。

寝ているあいだ、ってのも少し変か。

目覚めてスマホみていたらまた落ちた。



以前、虫をどうにかしようとして壊してしまった記憶がある。そのときの壊れ方は接着剤でまだ直せたが、今回はもう無理だ。結構細かく砕け散った。



地球って、つねに揺れているんゃよな。

小さなツメに引っ掛ける仕組みが最初から、ちょっとどうかしている気もする。


代わりのもの、売っているかなぁ。


買えるかなあ。











誰かを批判するとき、何かを揶揄するとき。


できるだけ直截では角が立つから、小説、という表現形式があるようにも思う。


もちろん違う意図をこめた小説もあるんだろうけど。


政治が嘘をつきまくっているから、ひとびとはオカネをべつのひとたちにつかって、言ってみれば別で政治をやっている。


だからほんとうはしのぎを削る闘いにならなくていいはずの文化活動でも、諍いが起きてしまう。


政治が嘘つきでないなら、文化活動に諍いは起きないかもしれない。いくら闘いはスポーツが担うったって、政治の嘘のぶんまでも担ってやることはできないはずだし。



電波でひとの言語世界がつながっても、身体世界は山や海で隔てられている。

そもそもその状況で、他人に何かを望むのが間違いではあるが、それは実は同時に、他人のために変わる自分というものを期待するのも間違いであるということ。


しかし、自分というものは距離で隔てられていないように思うから、皆、自分が変わればいいんだ、自分なら変えられる、と自分自身に期待する分量の大きいこと。


違うんだよな。


自分すら、隔てられているんだ。



たとえば指先の怪我がツメと同化して、そのツメが伸びて、爪切りで切られて捨てられるまで、何日かかったろう。2週間以上はかかった記憶だ。
 爪がまるごと剥げた経験が2度あるので(爪まるごと剥ぐって結構な拷問のはずなんですけど…)、全回復まで半年以上かかったことを私は知っている。


爪ひとつで、全回復まで半年だ。



身体の奥深くからつま先まで、いったい何年、何十年、何百年かかるというのだろう。





おかしいね。

ひとの平均寿命は百年に達しないっていうのに。



つまりひとはそれぞれにもっと長い年月を生きていて、しかしそれを擦り合わせるときには百年に達しない平均寿命という約束事でいる、ということである。そう考えたほうが自然だ。




長い長い年月を、ひとそれぞれに生きている。



1000歳、2000歳どころではない。

1万歳、100万歳。

いや、もっと長く生きているのかもしれない。




とりあえず、自分自身も、すぐ近くの他人も、それより遠いところにいる好きな人も、等しく100万年隔てられていると考えてみてはどうだろう。



たとえ的外れでも、そのひとなりに善意や敬意をあらわしたくてしてくれたことが、微笑ましくも思えてこないだろうか。









わざわざ1光年外に構えて、ひとを等しく塵とみなくていい。

他者をみるときは、100万年を思えばそれでいい。

それにくらべて2次元キャラとは、なんだ。

2次元キャラは、百年もかけずにつくられている。

最近の若者は…なぜ、2次元キャラが好きなのか。

もう既に100万年の距離に、諦めてしまっているからだろう。

実在の人物たちよりも、手玉にとれるからだろう。

諦めるな。

他人を諦めるな。自分を諦めるな。


たとえ200万年以上かかるとしても、他人や自分を確かに変えることを諦めるな。







さあ、夜明けだ。








↑上記は夜明け寝落ち寸前で書きました。朝起きていろいろ動いてから見直し、校正してアゲました。寝ぼけ頭を疑い、アゲ前校正をきっちりやったのは初かもしれませんね。








おはようございます🙂。