ヒッコロサンづてに、怒髪天をつく軽率組の動きが伝わってきました。


どんなに詳しく言うても、せっかくの良い法律や良い憲法も守ろうとしない、金にめがくらんだやつらのジツリョクコウシのまえには、生身の怒りが燃え上がらせるに任せるしかない。その怒りはジツリョクコウシでやり返せるときを耐え忍んで待つとして、怒りのほかの理性的な発言をするとしたら、


「愛より金」とかいうたやつらが「金で犯罪はもみけせる」とかいうやつらをのさばらせているんぞ、と。




存在を尊重するとか、資金有る支払える目撃者がいなくて金にならんが為された大事な仕事をした人に対し、これまた認識でだがその人の株として買ってあげるとか、そういうことができないで愛より金とか言っていれば社会が犯罪者色と被害者続出にまみれるドーリや。


誰もみていないところで仕事をしたひとの株、をどうやって買うのか?

それこそ愛より金と言いたいときにグッと歯を噛み締めて耐えて言わずに、その向きに走らずに自らのプライドを壊してでも金より愛を実践することと、あとは推理力だ。

ひとひとりが生きて得られる情報ってのは膨大なんだ。だからヒトは獣と違って言葉を多彩に話せる。

愛より金と言わずに頑張っていればその膨大な情報を推理材料にして、未知のはずのジジツに関して既知としてあつかえる。これは私がときどき千里眼というものでもある。



たとえばどちらかわからない出来事に関して、コックリさんではない。自分ひとりで断定形でどちらもつぶやいてみたらいい。

同じトーンでつぶやいたつもりであらわれる音の変化。その音の変化から、ほんとうは自身がその出来事に関して同じトーンで扱っていないことがハッキリとわかるだろう。そういうハッキリとした自己認識が、たとえその出来事の是非についてそのつぶやきひとつではわからなくても、ほかの出来事と組み合わさってよりハッキリさせられる可能性につながっていく。


黙って考えているだけではハッキリしない。
目で絵画的に本を読むだけではハッキリしない。

発声してみて、自分自身で聞いてみる。

そういうことでも千里眼は養える。



どれだけたくさんの本を読んでも、それがすべて黙読であるなら、ある一定の広さか高さの、見えない壁の内側にしかいられないと知りなさい。





そして金で犯罪はもみけせるってのをジッサイやってるやつらには死を。














おはようございます…(# ゚Д゚)。