むしろそれは重ねるのではなく剥ぎ取る、自心の痛みも伴って決してたどり着けないようにするめくらましを剥ぎ取る思いと行為なんだがなぁ。たどり着きたさに。






みるひとの視点を想定した三眼自画像(リアルキュビスム)なんて、みせてくれたひとなんか世界にまだオレしか居ないわけじゃん?



一眼レンズに片目を見合わせりゃ、漫画的な意味でのカッコいい顔になることなんて、ボクだって知ってらぁ。


しかしそれをやると当然、特に電子データなんてドットなんだからさ。別の誰かと被ってもまったくおかしくねーんだよ。




そこを責めたいわけじゃなくてさ。




ポイントは、ボクは水城村を想像することで航空機のストレスに耐えた。ボクのアイデンティティーの要素となった、ってとこなんだよ。


ボクはストレスに耐えずにただ衝動任せに暴れていりゃあ、当然犯罪者になって、キミにもほかのなまえをあげたコにも会えなくなったはずでさ。たとえ万が一会えたとしても、あわせる顔は無かったはずでさ。



そのぶぶんを(なんらかのかたちで)買ってくれる女の人でなくちゃ当然、ボクと一緒にやっていくことなんかできるわけねーって、それはもう厳然たる現実だろうよ。



その苦労を、同姓同名が多くて必然自己肯定感が割引になってしまうひとのうちひとりに、特定の手助け、識別の足がかりにして、ボクは好きな女性に向かうわけで。



結局はそれがどれだけ続くかで、意味が変わってくるだろう?


ほとんど続かなければ誰でもいいんだ、好きな妄想を重ねているんだってことになるし、続けば、いや、そのひとでなくてはきついんだ、そのひととでなくてはやっていけないんだ、ってことになるだろ。




夫婦は顔が似てくるものなんだ。



夫婦やればやるほど過去の顔からまた違う、配偶者に似た顔になって、そこにまた唯一無二がつくられていく。



ちゃんと夫婦をやりもしないで、自己肯定感の高い確かな自我などつくれもしないのさね。生来の理屈からすれば。








東京はひとがみっしりいて、それだけいるのに、里山にいって都会の弱っちいやつらを守ってやる!って夫婦はなかなか登場しないわけだろ?


東京の人数が多ければ多いほど、その、利他の精神のなさが浮き彫りになってしまう、日本。



世界中にオカネをばらまいている岸田首相がぎゃあぎゃあ言われもするけど、それ以前にお前ら、里山に住みたがらねーじゃん、ってなもんだよ。利他の精神をもって周辺に散ろうということを、すれば野生動物のためにも日本全体のためにも生まれ故郷のためにもなるって頭でわかっててもやろうとしないやつらの税金が、世界中に散るのは何なら道理なんじゃないか?厳しいことを言えばさ。











足がかりでしかねーんだ。


キッカケでしかねーんだ。


ボクのいう自我だなんだなんてのは。




大事なのは、いま、このおもいがまだ続いているってことでさ。



そりゃそっちになんのおもいも続いていないなら仕方ないけどさ。



その場合は、ただオカネの理屈で、オレはオレのやるべきことを、向くべき動きを、やるしかないだけで。






元嫁が重ね重ね違法行為しないやつなら、続いていたさ、もとこを思い出すこともなく。




それともいまこのおもいもけっきょく、違法行為するひとにひきずりまわされているだけのジジツなのかぃ。




同姓同名のないオレがほかの誰かに重ねられることはほとんどなかろうけど、オレからの重ねるな、は、



だれもに、違法行為は重ねるな、ということが言えるかな。















あー、おやすみなさい、ゃった。






ちょっとなんか飲み物飲むわ…。