おはようございます。
前記事でフォントサイズの使い分けをして、とくに 解説:のところで思いつきました。
静かな演劇ってのは平田オリザさんが提唱したらしき(すみません、権利をパクられる経験しちゃうとほんとにそのひとがオリジナルなのか疑う姿勢ができちゃいました、たは)舞台様式で、リアリズムを追求したはてに、観客からみたら何を発声しているのかほとんどわからない、聞こえない声量であれよあれよと進んでしまう戯曲、演劇のことです。既存の、よく聞こえる発声をヨシとしている人達からしたら素人演劇にかっこよさげな名前をつけただけのものだし、よく聞こえる発声を怒鳴っているみたいで不自然だし不快だと思う素人観客からしたら前衛的でプロフェッショナルなリアリティー溢れるもの、それが 静かな演劇 です。
いっぺんわたしも、生で観ましたからね。
で、思いつきましたは、もっとこう…、人物の心情の経緯みたいなことは小声ですべて、舞台正面すら向かずのリアリズムで独白しつづけ、現実に発声しているらしき声、台詞は大きな既存の演劇の発声方法でやり、つねに観客が、空気と非空気とを連続的に読めるような聞けるような、そういう演劇にもう一つ、押し上げてみたらどうかということです。
劇作家にとって苦痛でしょうけど、役者にとってはこれほど実力をたしかに問われ、また、底上げされる、素晴らしい様式もないのでは?
そして観客にいたっては、前席のひとたちはその心の声とでもいわれそうな小さな声までも聞き取れるけれど、後席のひとたちは既存の大きな声の台詞部分しか聞こえない、と、そういうサービス精神あふれる舞台表現になりそうですね。
既に試みたひとたちは居るでしょうか。
いやー。世の中にある文字ブログ読んでも、そんな苛烈な仕事に突っ込んで行こうという気概のあるひとはまず何処にも居なさそうに思いますがね。
役者にもテキストの提出を義務付けるやり方になるでしょうか。
シェイクスピアの戯曲なら、PPP や FFF などで演出するだけで可能なテキスト量があるかも?いや、シェイクスピアの戯曲にもさらに数倍の書き足しを余儀なくされるでしょうね。ひとりの劇作家がそれをやるとしたら大変なこってす。
ガチガチなやり方に、ついていけない役者やスタッフが続出するでしょうか。
まあこんなたぐいの話は、言うだけでも言わないよりはマシでしょう。
昔の人ってね、黙読、なんて文化習慣はなかったんだそうですよ。すべて音読。本を読む、文字を読むのはとっっても時間がかかって当たり前の行為だった。
そもそも紙は希少品で、本も少ない、有り難いものだったはずでね。
黙読ができる、黙読が当たり前って文化習慣は、じつは本が大して有り難くなくなったことの裏返しなんですよね。
那向