こんばんは。


 かあくんさんの今回の鉄道写真記事から、私は地理に詳しくないので検索かけてみましたら、同じ橋の写真でもじつに多くの方が撮影されているのをまとめて閲覧できました。

 これはどこから撮ったんだろう。アスファルトかな。もしかして藪の中にまで分け入ったのかな。そんな想像をしているうちに、地図で場所を確認してみたくなりました。🔍宇田郷 須佐 みてみると、私が自転車で行ったことのある山口市よりもさらに北の、東でした。

 自転車って、私は競技用にと走るので、頑張って漕いでいるときは脳内がスキル反芻でいっぱいではあるんです。

 それでも知らない土地を地図で眺めるとき、そして知っている土地を改めて地図で眺めるとき。そこに住まう人々の存在やら命やらが灯火となって思われるし、走ったことがあって知っている風景であれば、生々しい風の匂いなんかも思い出されます。なにか、極めて小さな恋心を複数、胸の中に宿すような気持ちになります。いと惜しくなるわけです。想像するだけでも。

 いつかそこに行かねばならない。勿論自転車で。そういう責任感みたいなモノと、そこに行って誰かその現地のコと恋に落ちて結びあって、生涯そこで暮らすことになるリアルなんかもまさか思われるわけです。

 …けど、もっともっとリアルでいえば、そのコは今ドテラビジネスにハマっていて…とかそういうリアルもありそーで、そうなるとまた、旅情から慕情から恋情なんてのが、アレッ?とあっち向いてホイされそうではありますが…。


 胸之内に外向きに、生花用の剣山が針を幾つも構えていて、それで誰かを突き刺したい。そういう気持ちに、ちょっとなりました。


 意外とどこかで、何かの作品で観たことのある景色だったりもするんでしょうね。見知らぬ場所のはずなのに、ひどく懐かしいような印象を持ったり、如月駅の素材として引用したくなったり…。

 中国のテレビドラマを観たことはありますか?中国人の演技はまるで 10億の中国人を一人が背負ったかのようなきめ細やかさや濃密さです。一方で、日本人の演技はまるで 1億の日本人を一人が背負ったかのような程度の表現なんです。

 中央集権的であり続けようとする限り、自由なはずの演技表現のせかいであっても、その同国の人々を背負う数の差は絶対に埋まらない。ひとりの俳優の細胞は日本人の人口よりも多いはずなのに、そんな律儀でつまらない正比例、要らないのに。


 ヒトとしての細胞で、木々や海やほかの生き物やヒトビトの細胞と語らいに行けたら。そういった 商ビジネスの格差なんか忘れて、いとおしさで胸や腹をいっぱいに出来るかもしれないのに。

 そんな夢、ここが野生の熊が居ない九州だから思い浮かべられるのかもしれません。



 こないだの登坂ダッシュの場所。取り壊された家屋の土地にあった切り株のようなものが、まるでこちらを見下ろす野生の、熊のコのように見えたんですよ。ふたつのつぶらな目がこちらを見据えて鈍く光っていました。少しだけ驚き、少しだけ怖いと思いました。


 







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南無宇田