ぶっちゃけ、玉のカタチがそのままマシン鍛錬中の持つべきイマジネーションだった。
これ、単純に自転車にあてはめてはただ転ぶだけだと思う。落車って意味で。主張が単純だから。
マシン鍛錬中に変に断裂命令ばかり自身に下しても回復が追いつかないからやるべきでないのは確かゃが、実際プロ競輪選手としてお客さんの観とらすなか走るのに、カント(バンクの傾斜)にあやからない手はないのだけれど、こちらのすべてを包み込むようなカントではない。コンクリゃもんね。
だから部分的には上記の単純なイマジネーションは必要なんだよね。必要な部分のほかは自転車考だとかヘルメット自転車考だとかを当てはめていかねばならない。つまり…
弛緩においてはバンクとの協調。
収束においてはヘルメット自転車考。
そして特に収束極まる点において自転車考。
こんな感じで、3Dかつ4Dに思考と肉体との連絡、連動、連関ができなくちゃいけないんだわね。
報連相ならぬ、連連連だ。
すべて主体的に。
固定ギアに対していっときも機構に主導権をとらせず、うすくもこくもこちらが常に主導権を執っていく…。
ちょっとオラ、わくわくしてきたぞ、ってか。
希望を一瞬たりとも捨てない、と言いかえることもできるのかな。
脚6種目軽量1200回
3100kcal
√5
南無盤区