上のタグをたぐり、劇薬治験未完了剤の毒性について知ってください。
 白血病の観点から言っても至極残念な注射です。
 命や人生にまで関わる話です。打つことを強制しないようにしましょう!



 そろそろ本州のひとたちが語りがちと見受けられる 波動 について言及します。



 旧来、気高いとか下品とか言っていた性質を、どうやら波動が高いとか低いとかいう言い方をする人々がいるようです。
 たぶん国鉄感覚の、東京に近いほうが上、遠い地方は下、という定義を引きづって、そのような文化が出来たのだと思います。

 上京、なんてコトバが今でも現役なように、東京は人が集まるところ、という感覚は今でも現役です。もとから東京近辺に住んでいる人たちからすれば、同じ日本語を話す人たちとは言え、自分たちが慣れ親しんだ世界に割り込んで来る異文化のひとたちであることには違いなく。創造的であれば馴染めもするが、創造性を欠いて諦めてしまえばなかなか馴染めない人たちという話にもなります。

 日本列島では今、野生の熊が活動域の広さで言えば全盛期を迎えているようで、日本の各都市は九州沖縄を除いて熊に囲まれた、たとえるならビデオゲーム(ちょっと古い言い方をしたくなった)の『ドラゴンクエスト』でお馴染みのマップシステム。都市を出ればモンスターが待ち構えている状態にあります。
 人間がときに人間を襲うモンスターになるのは、わしから見たらそれらほんとうの野生のモンスターたちへの恐怖からだと。都市の内側にいる人間を消してそのぶん自分が内側に入れ替わりたいという、まぁ、自然といえば自然な感情からだと見ています。

 しかしその自然といえば自然な感情を押し殺せて、一応平和的な人間たちがほとんどです。ただ、その押し殺す際にイナカのジモティーたちを馬鹿にして踏み台にする人たちもほとんどなんですが、それはさておき。
 同じ都市内に、3畳1間で借金生活してすら馴染もうとする '上京' してきた人間に対して、東京の人々は新しい団体とか新しい仕事などを用意してなんとか一緒にやっていこうとする…そういう人たちは、わしはそれなりに、上、とか、気高い、とかいう性質を誇っていいと思います。地方在住、特に新しい仕事を創造した訳ではない、九州人のわしからしたらそういうふうに見上げられます。
 しかし東京に集まるひとはあまりに多いため、そういうやりくりを諦めてしまって、すっかりもう他者に興味を持たなくなった人たち…つまり 孤高 になった人たちを、わしはあまり気高いとか上とかいうふうには見上げません。残念ながら。そういうひとたちは、鉄道が国鉄でなくなっても上り線下り線とは呼ぶけれど、もはや東京が無条件で上だ下だと言うわけではないのと同じように、孤高だからといって気高いとは限らない、と見ています。

 というのは、孤高なひとは波動が高いのを高次元、多次元として語りますが、思い出してほしいのです。音叉の話を。
 昔の音楽は基本周波数は今より低めにしてあったという話。高い周波数を基調にしたのはカバールで、そのせいで音楽はリラックスできる癒やしから、洗脳のためのツールになってしまったという話です。
 波動が高いというのは人との関わりのなかで、周波数が高いのと何ら変わらないのです。相対的に本人は気づきにくいのではないかと睨んでいますが、波動が高いひとは高い周波数なので洗脳加害的です。心に高い音叉を持つひとなのです。
 波動が高いことをヨシとする人たちは紛れ込むモンスター人間を制御したいがために、モンスターでないはずの純朴なひとたちにすらその高い周波数を向けてしまっています。
 だからトランプの行く先、アメリカの行く末に関して、ついつい、やらんほうがいいとうすうすは勘付きつつも、何月何日にとうとう何何が行われる!と予言したくなってしまうのです。そして、外す。
 また、他人の発言をまるまるコピペしてしまうのは私的コメント付きのリブログとは異なります。それは営利目的のためでなければ著作権侵害ではないものの、もろてをあげて同意する行為なので、それは他人のことを自分のことのように置き換える行為と被ります。

 注意してほしいのですが、わしは孤高な人間は程度の低い人間だと言っているわけではありません。かんたんに言えば程度でいえば同じくらいだと思っています。
 人間として関わりを努力し、お互い同じように幸せになれているひとたち、なろうとしているひとたちは最も気高い人間だと思えますが、それは世界人類全員が確かにそうなるまでほんとうには実現不可能なことです。わしとしては気高そうだな〜、ほんとに気高いのかな?主従関係で一方が搾取しているだけになっていないかな?という目で見ているのが、ほんとの現状です。

 ここで、さておき、としておいといた話を戻します。
 つまり '上京' する人たちのほとんどは、地元あるいは地元に隣接するような地域の人々を見下して'上にあがる' のです。そうしなければ踏ん切りがつかないのは分かるのですが、踏み台にされたがわとしてはたまったものではありません。ありとあらゆる決めつけ、レッテルと闘いながら生きなくてはならなくなってしまうからです。
 そういう踏み台をつくらずに '上京' するのは難度のあまりに高いミッションのようです。'上京'した人をたくさん知っていますが、なかなか 'ジモティーを馬鹿にせずに上京' していった人を、わたしは知りません。
 東京に、人があまりに多いからです。それが易く可能になるためには、たとえば東京のひとたちが積極的に全国に散ると同時に、里山をもっと活発にする必要があります。
 全国に積極的に散ることで、また熊を森の奥におさえておくことで、犯罪によって押しのけてまで、都市の内側に入りたいモンスター人間がうまれる必然を、最初からなくせばいいわけです。

 マッピングから自由になる集中力が高次元多次元の感覚を生むのはわたしも何度も体験しているので、それが精確で良いものだと思えて常態化したい気持ちも分かるのです。しかし、マッピングは自然を生きる野生生物たちにとってはなくてはならないものです。元来は、良いも悪いも無いものと言えます。

 波動は高くも低くも、相手に合わせて適切に、自由自在に上げ下げできるのが最も良いかと思います。それはつまり、人の可能性を決めつけないこと、人の成長や進化を諦めないことです。

 このコロナ禍と絡めての白血病に関する見地が拡散されないのは本当に何故なんでしょうね。
 わしとしては確かにわしが世界初でそれを文化したとはおもいますが、決して拡散しないでくださいと言った覚えも記録も無いのですが。

 見地見解は営利目的のためでなく、ほんとうの正義のためなら引用どころか自身の見解のように見せても、著作権侵害などにはなりません。その人の見解として上げたければリブログのような、それを尊重した構成にすればいいのです。
 まったく拡散されていかないのであれば、ああ、また'上'が'上'であることを維持したいがための悪あがきする悪い癖が出てるな、とわしは見ます。

 命を救うためならなりふり構っている場合ではないでしょう。しかしなりふり構い、出来ることと出来ないことがあるのであれば、やはりマッピングで生きているだけなのかなと、嘆息つくよりほかありませんね。
 これは自分自身も常にその一部であることを懸念しながらの話です。
 
 誰か、九州沖縄の人でも波動云々いう人が居たらコメントください。
 上記がいい意味での杞憂に終わり、わしの脳内革命にもなりますので。