こんにちは🌤。

 ちょっとムッとしたりあとは平常心だったりの敬体混じりの常体文でしつれーします、rute5です。


わしはどんなに何十万ぶんの一の確率のセンスを持っていても、わしの20余年来のやり方では'ぷろ'には成れないと言われた。

 しかし、わが実家、低空飛行区は万が一の事故が起きるとしたら月に一機は墜落する地域であった。今はコロナ禍で飛行機の便数は減ったが、ボクが暮らしていた頃は多いなんて言葉じゃ済まされないほど多かった。

 その万が一を 12ヶ月、それを20年以上続けて、しかも 3万分の1であるという隻眼の父にストレスのはけ口にされてそれでも長らく反撃せずに何度死んでも生きたボクという人物の確率は、1/45000000000である。そしてそこに、母親姓でありながら母子家庭では無かったという確率まで掛けられると、さらに分母は膨らむ。

 早い話、わしは何十万分の一どころの確率の生き方をしていないのです。
 もっともっと桁違いに、'ひととちがう'奇跡的な生き方をしてきたのです。そしてそれはボクの選択だと言うためには、ボクは親を選んで産まれてきたんだというしかないくらい、ただのボクとは関係ないはずながらの、他人からみればボクが選んでそうしたというセンスになる。

 つまりボク当人はいたって普通に生きてきたつもりなのだが、他人からみればこのわしという存在は1/45000000000よりも希少な種類ということになる。
 そんなオレのセンスは、当然自他の観点を五分五分と見ても 1/22500000000くらいに数少ないものとなる。そこに千差万別とか、みんなちがってみんないいとか、そういう当たり前の価値観まで加わってくれば、もはや、

1/1000000000000000くらいの確率のセンスの持ち主ということになる。千兆ぶんの一?

ようするにそのセンスが良いか悪いかが問題なのであり、一応服役していないところをみると、そんなに悪いものでもないということなのではないでしょうか。


 以上、わしのセンスの確率の話でした。



11:42脱