おはようございます。セミセミセミセミ…蝉。
蒸し蒸しする時期に虫が啼く、無視するひとの多い国、日本?
いやいや。事件があまりに多過ぎて、一貫性の維持が困難なほど振り回されているだけなんかもしれません。
こっちを立てればそっちが立たず。
一見して立派そうな理屈も、別の観点からしたら穴だらけ。
昔は良かった?
倫理観と道徳とが完全に支配者であればね。
どれだけ倫理観と道徳とが我々を心配しても、肝心な我々がそこに息苦しさを感じたり、プライドの阻害を感じたりして、倫理観と道徳とを真の上司と認めなければ、今日も優しい人から死んでいく。
わしは、福岡空港の低空飛行区域から離れて暮らし、何かにつけわしを殴ってきた父親とも離れて暮らし、いまやこれまでしてきた約束を鮮明に覚えている。思い出せる。
守れなかった約束は今でも悔しいし、守れた約束は誇らしく思う。
結局のところ約束は、守らずに責められはしても、守っても褒められはしない。約束は、無料の契約だ。守らないと責めるよ?とプチ脅迫つきで行われる、一見して立派な理屈に過ぎない。約束に、一貫性などない。
優しいひとも、観点を変えて形容すれば、約束の一貫性の無さも見抜かぬから許容を選べず型に嵌まり、別の約束を守らぬ優しくないひと、となる。
なんでこうなるって、人体、皆それぞれに動きやすさと動きにくさとあって、人間方向性を持って歩いて生きているからである。
倫理観と道徳とを推して生きるのがやりやすいひともいれば、オカネに目をくらまして生きるのがやりやすいひともいる、と。
あのひとの、その行動のせいだって、一因だけに集中してはいけない。だいたいは複合的な因子で事件は起きる。
だから犯罪者が裁かれるとき、思ったより軽い罰になることは多い。
オカネを持たぬひとが悪いのか。
オカネを持たせぬひとが悪いのか。
オカネをとるひとが悪いのか。
オカネをとらせるひとが悪いのか。
そうして眺めてみると、良い人とは、
オカネを持ち、オカネを持たせるひと。
オカネをとらず、オカネをとらせないひと。
か。
どうやってオカネをとらずにオカネを持ち、オカネをとらせずにオカネを持たすなんて芸当が可能なんゃろうか。
自分通貨を発行することで、それは可能になりそうだ。
つまりシゲトというオカネを わしが発行したとして、これは誰からオカネをとったわけでもなく、わしが持てるものとなる。
そしてシゲトというオカネを真似て、誰かがシゲトを持ったなら、それは わしがその誰かにシゲトというオカネをとらせずに持たせたという話しになる。
面白いね面白いね。
偽札づくりを許容するオカネがあったら、この世はどうなるんだろう。
そりゃつまり、たとえばわしが差し出された色紙に差し出されたペンでサインをしたら、飲食店は手のこんだ食べ物を食べさせてくれるし、ファンは わしが欲しいとネットで発言したものを送ってくれる…そしてそれで わしの生活は成り立つ、と、そんな調子か。
ひとにされたいことはまず自分からやれと、それが一貫性だとしたならば、
わしは色紙とペンを用意し、誰かにサインをねだるべきなのかもしれない。
そして、そのサインをくれたひとに、わしの持つなにかしらを上げると、そこからわしのサクセスストーリーは始まるのかもしれない。
芸能界。
昔からよくわからない世界だった。
よくわからないままに、案外深く関わってきて、関わっているような気がする。
エルボーパッド、ニーパッドを検索してみよう…。
わしが破壊しているものはわしを破壊せんとするもの、わしの破壊を目撃する者は、わしを破壊しようと見てはいるが、わしを再生させようという手を止めている者だ。
手を動かせ。
手を止めるな。
手前は手前の仕事をせよ。
それからだ。口を動かすのは。
エルボーパッド、ニーパッド…。
それでは今回はこれで。さようなら。
電子文ですが、また、お会いしましょう。