給料もろてる仕事場では、両手をつかうことにためらいがない。くりかえしの単純労働。つかえばつかうほどどちらも器用に動いていく。
 自転車に乗ると半分忘れる。ひと踏みひと踏みいちいちスキルを意識しないと両手はつかえない。そして家に帰るとそれを忘れる。なにも手につかず、オロオロと悲しむだけ。この両手は、オカネを稼ぐためだけにあるかのようだ。
 オカネを稼いでもわたしても、嫁はオレに、ろくな飯をつくってはくれなかった。そのくせオレの家事育児の無能さを幼稚園のひとたちと笑いものにして、子供ら全員奪って逃げた。オレがダブルワークで深夜二時に、しかも自転車で帰るような日々でも、そうやって馬鹿にしていた。
 きっと子供らも母親の料理など、ろくに食べさせてもらえていないだろう。見ていたら、祖母のつくる味に慣らされて久しかったからな。

 両手を、のばしてみようか。
 家の中でも。
 左でも右でも、早い方、手につくほうが動いてくれりゃいい。そうしたら少しは、家の中でも生きていられるかもしれない。
 おそらく、世の中の嫁がバカにする旦那の話は、そのまま嫁自身の無能さを説明するものなんだろう。旦那が家事育児をしてくれないと愚痴をこぼす女は、女自身の家事育児能力のなさを自らさらしている、というわけである。
 そもそも夫婦は共同作業。外か家の仕事、それらが活発に行えるためにはコミュニケーションが不可欠。でないと二度手間になるからね。旦那をバカにする嫁というのは、旦那とそれをやれるためのコミュニケーションができていないことをそのままあらわしている。
 コミュニケーションってのは何も、嫁が家事について何何をやって、と、言って、それをやれるかやれないか、なんて一方向のものではない。旦那からもやってほしいと希望する家事はあるし、旦那のほうにも主観はあって、言われずに動く部分もあるからだ。
 たとえば毎月オカネはあげてんのにいつまで経っても嫁の料理の腕が上がらないから、オレは自分で朝、早起きして自分の仕事量に応じた大食い用の飯ぐらいつくって食べるとか、いつまで経っても家計簿をつけないから使っているオカネの正当性を旦那に証明できないでいる嫁に、それでも残業増やしてあげるオカネを増やしてみるとか、いつまで経っても旦那の個人的な仕事を理解しない嫁に、聞き流しでも耳に入れるように話をしとくとか、そんな感じ。ただ、そうやって嫁がやらないからオレがやる、の割合が増えれば、当然オカネをあげてんのはこっちなんだから、疲弊するのはこっちなんだ。
 つまり、そう。嫁が旦那の何かに関する無能さを馬鹿にするとき、それは嫁自身のそれを馬鹿にするときなんだ。

 オレは嫁を待っていた。
 嫁に、忙しかったから何ヶ月かにいっぺんの稀なタイミングで、懇願するような気持ちで家事についてオレの希望を言っても無駄だったから、嫁自身が反省して、心を入れ替えてくれることを願い、待っていた。それが、冒頭の両手のつかいかた。
 しかし、もう嫁の改心を待っているのに疲れた。嫁はどうもまえの旦那に義理立てしている部分があって、それはつまりまえの旦那との関係における反省をオレに適用している部分があって、改心という概念をどうも自分規準でやっているようだからである。待てども待てども彼女はすでに離婚再婚でおおきな反省と改心をした気でいるから、自分のやり方になにひとつ間違いなどないと思いこんでしまっている。嫁は馬鹿だから、まえの旦那での反省をオレに適用することが、オレをまえの旦那と同一視することにつながるという真実に気づいていない。
 オレはそこまでバカな嫁を待たないことにした。だから、両手をのばすことにした。この家が誰の家だろうと、その道がどんな道であろうと、オレはオレの好きなように応対させてもらおうじゃないか。
 嫁が家の中でリーダーシップをとれるように、控えていた型の気の持ちようを改める。あいつはバカだから、リーダーの器じゃない。少なくとも家事において。
 あいつがバカだから殴って連れ帰るわけにもいかず、あいつがバカだからどれだけ待ってもあいつは育たない。
 独身の頃はオレが飯をつくって食わせていた。
 婚姻、結婚してオカネをわたすようになって、それでもオレに飯をつくることをいやがるような恥知らずのバカは、もう待つまい。
 死ね、わが嫁よ、少なくとも家事において。
 お前はオレの視界から消えていろ、少なくとも、家事において。
 どけ、じゃまだ、久美子よ。
 オレが家事のリーダーだ。