法は、からだを整えはしても突き動かしはしない。整えきれていないままでも、からだを突き動かすのは誰かとの約束。では約束をするためには?
 約束ができるほどの信頼やテンションが高まらねばならない。ようするに、約束の地に近づかねばならない。約束は公平でないことがほとんどだ。誤解によって世界は進むと言いたくなるくらいだ。だが、39年間を振り返るに、世界を動かすのは祈りだとおもう。欲望も、下位の祈りだ。願いが、上位の祈り。ただ、世界はそれで動いても、人はそれで動くとは限らないかな。つまり、祈りによって動いた世界が仕方なく誤解のしょうじるところで人を動かす。そんな具合だろうか。
 約束は近眼の約束と老眼の約束があり、それらは互いに10を分割している。そのことを忘れて近眼の約束ばかりしたつもりでいると、いわゆる、バチはあたる。望む人生を進むためには約束を選ばねばならない。それは、別の約束を諦めることと表裏一体ではある。ただ、老眼の約束もあるのだから、その綾によって何かを得るために何かを諦めなくていい場合もあることに留意されたい。
 約束をするためには、生きるという宣言が必要である。まもれても守れなくても、守ろうとするためには生きるという表明が最低条件。つまり約束をするためには、より生きるという意思がひつようといえる。
 悲しくて、もう死にたいと思うなか、生きるという表明をどうやってできただろう。死にたくないという思いは生きるという表明にはならないのだろうか。生きていてくれという誰かの祈りが少なからず、生きるための松葉杖くらいは用意してくれていたのかもしれない。オレはそれにすがりついた。
 日本人とは藁をもつかむ溺れる人なのだと、最近、冤罪に押し込み子供らをさらった義母たちをみて特に思ったものだ。そしてオレもまたブログで思考するという、藁にすがっている。この思考のために、サイバーエージェントは存在してもいて、オッドアイのあのひとも通り過ぎて行った。オレが初めて結婚できたらなんて妄想をした女優さんは、オッドアイのあの人だよ。あの人なら、オレの茶色い目の異質さもきっと気にならないだろうと思ったんだな。
 突き動かすのが約束ならば、オレはそれを利用すべく、約束をしよう。ただし、不本意な結果に流れ着かぬように、きちんと先を読んで、眼の良い約束をしよう。
 そうだな。
 オレは残りの人生、すべてうつ伏せ寝で就寝することを約束するよ。
 こんな約束でどうだ。
 この約束なら、きっといい未来が待っている。そう読むよ、オレは。
 さあ、突き動かされよ、オレのからだ。