アドラーは怒りを否定し、どこぞの坊さんは怒りを肯定した。
怒りの正体、それはエネルギー。
エネルギーは方向を持つ。その方向に添いたいひとにとって怒りは喜びであり、それに抗いたいひとにとって怒りは悲しみである。
怒りは選択の自由を与える。
怒られた人間は怒った人を敵にし得るし、先生にもし得る。
ただ、怒った人が敵や先生でありつづけるかどうかは保障できない。
永続性はない。それが怒り。
永続性のある怒りは、恨みという。
怒り自体は違法ではない。
怒りを過剰に表現したとき、違法行為となる。
あるいは違法行為と言われた怒りは、過剰であったとおもうべきだ。
嘘で怒りを挑発した場合、その怒りは誠である。誠の怒りは実のある怒り。
怒りにも虚実があるというわけだ。
無知な者が勘違いで怒ることがある。それが虚なる怒りというわけだ。
怒りの虚実は知無知で決まる。
知のある者は嘘で挑発はしない。
無知なる者は嘘で挑発をする。
知識の使い方の誠実さで知ある者と無知なる者とが分かれる。
他者の采配による勝敗では決まらない。
まして知識量でも決まらない。
嘘を放つか、放たないかで決まる。
虚ろな怒りは添いたい者には悲しみ、抗いたい者には喜び。
明後日は受験だ。
虚なる怒りにもエネルギーや方向があるんだろうが、それらにつきあう時間は、もう1秒だってない。
実なる怒りに添うのか抗うのか。
明日の調停ではそれをはっきりしてもらおうか、渡辺晶子。