杉田議員を擁護するつもりではないが、オレはオレなりにLGBTのひとたちの社会進出に関して反感があるのを、いったいどうコトバにできるだろうか、一ヶ月くらいはうすら悩んでいた。

いま、オレは調停中だ。
調停ってのは、安易に離婚しないようにするためにある制度だ。
制度ってのは文章で定義されるから、ひとたび定められると過去から現在そして未来にわたり、制約が生じる。その制約によって権利を得るひともいれば失う人もいる。制約を利用する人もいれば悪用する人もいる。
オレはこの調停という制度によって救われている部分もあるが、過去の判例を悪用され、渡辺晶子というにんげんに虚偽の文書まで提出され、私が責任を負いきれない義理の父や母の落ち度どころか、架空の負い目までも主張されて大変な権利侵害と不利益を被っている。

どこかで書いたつもりでいるが、結婚と婚姻はちがう。
婚姻は事実婚までふくめれば当事者間のみで成立する形態だが、結婚は保証人をひつようとし社会の協力を必要とする。まず婚姻は個人的な行為、結婚は社会的な行為として分けてかんがえるべきだ。
結婚には、賛成して協力してくれるひともいれば、反対して協力してくれないひともいる。だが法律や制度は、少なくとも婚姻するものの婚姻を継続するための権利を否定する立場には立てない。人権侵害になるからだ。しかし、結婚に賛成するか反対するか、これは他者の協力の有無であるから基本的に自由なのである。

僕もながい間、貧乏役者のあいまに就職活動をしてはみたものの、職業選択の自由があるとはいえ雇う側にも黒字を出す責任があるため、選ぶ権利がある。という言われ方でたいへん苦労した。
オレは、LGBTもこれと同じだとおもうんだ。

体が男で心が女のひとは、体が女で心が男のひとと結びつけばなんの問題もない。逆もまた然り。昨今はインターネットも発達しているから、探そうとおもえばきっとものすごく探しやすいとおもう。
問題がおきるのは体が男で心が女のひとが、体も心も男のひとと結びつくような場合だろう。
子供がほしいなら体外受精や養子縁組という手もある、とかんたんに言わないでほしいのだ。じつの子供を手放さねばならなくなる夫婦やカップルの問題はときおり哀しい殺人事件もおこすほどに重大な問題である。それを踏まえなければ手に入らない子供というのは、あきらかに社会に対してかける負荷が大きくなる。それを問題視しないとしたら、やはりそれは傲慢で自分勝手な情欲のカップル、ということになろう。

今日、調停委員にも言った。
裁判所のひとたちや法律家は誰かを救う場合もあるが、救うにあたりどうしてもプライバシー侵害をしなければならなくなる、その原罪意識をもたなければならない、と。その原罪意識もなく救おうとすれば、当然歪んだ救いにしかならない。

制度というのは一度定められると、過去現在未来にわたる。
時系列で先に言動を決めた者があとで言動を決めた者に責任をもつと考えられがちだが、こと制度の利用においてはその順序は怪しくなるし、逆転し得る。制度は時間とともに自然と変化するものではない。頑として動かず、あるときは誰かの現在や過去を無視した未来への教祖として、またあるときは未来を見ずして現在や過去を主張するための武器として機能する。
子供を産むことはできない、しかし結婚に協力してくれということが、制度として決定された場合、どんな原罪をもつことになるのかを考えるべきだ。

オレは結婚したくてしたくてたまらない女性を諦めるために、こんな理由づけをして自分を納得させたことがある。
もしかしたら、その女性とではなく、その女性の子供と、オレは将来結婚できるかもしれない。『彼氏彼女の事情』の、あのロンゲのイケメンみたいに、と。
しかし子供が産めない結婚では、そのような未来に希望をもつ諦め方は、周りはできなくなる。
世界的には子供は増えてんだからいいじゃないか、というのなら、世界に出ていけばいい。日本の制度を責任もって変えようというのなら、あたりまえに日本文化を憂いなさいよ。

自分のゼロをイチにしたいがために、他人のイチをゼロにするような考え方は辞めてほしい。
自分のゼロをレイテンゴにするために他人にもレイテンゴになることを相談するのならまだ話しは分かる。それでもやはり、子供が産まれるというのはまたまったく違うイチが産まれるということなんだから、慎重に相談するべきだ。

子供が産めない結婚をしたひとは、子供が産める結婚をしたひとのことをニかサンだと思っていないか?
子供はどうせいずれ巣立つべき、またまったくちがうイチなんだ。
しかしそのじつのイチを失うことで、もしかしたら親は自殺するかもしれない。
子供だって幸せをあたえてくれる存在に育つと、絶対に限れたものではない。凶悪な犯罪者になる恐れだってある。じつの子供が凶悪な犯罪者になるのと、養子の子が凶悪な犯罪者になるのとじゃ、きっと心の痛みようは違う。

男女平等もそうだが、目の前の平等ほしさに総括的な平等を忘れてしまっては、人間は生命力を失うばかりだ。
目の前の平等と総括的な平等りようほう考えた上で、それでも制度化してほしい部分を主張してもらいたいとおもっている。