「涙もろくなりました」と言った。
どうも、シャチハタ丸です。
学校のあったはずの平日を2日間もほっといて祖父を送りに行きました。
僕としては、前回で書いたとおりのことでとてもではないけど想像したくないような状況になるのではないかと危惧していました。
が、思っていたよりはずっと穏やかで安心しました。
享年94で曾孫を含めた数十人もの親族が祖父を送るために忙しい時間を割いて集まってきたと考えたら、それは大往生ではないでしょうか。
本人に聞かなければわからない、と言いましょうか、今でもご存命ならば「全然大往生じゃねえよ」とでも言いそうな本人ですが、
もうそれを聞くことも出来そうにはありませんので、確かめようもありません。
とりあえず、今回はそれについてのお話しをしようと思います。
まず、火曜日の昼に鳥取空港から羽田空港まで行きまして、京浜急行で伯父の家の近くまで行きました。
その頃すでに4時半頃で、従兄弟が迎えに来てくれた車で家に付いた頃にはすでに祖父は外の霊柩車の中でした。
この時、父もいたので、父の車に乗って斎場(まあ、簡単に言うと葬儀屋)へと向かいます。
駐車場が少し離れていたので歩いて、それから祖父とのご対面。
棺の中をのぞく前に線香を立てながら、写真を見てみると、僕のよく知っている祖父の顔があります。
母が一足先に祖父の棺の窓部分を開けて先に対面していたので、僕も多少の躊躇がありながらも覗き込みました。
ただ、祖父がいらっしゃいました。そこには、写真と一体どこが違うのかとも思われるほどの寸分違わない祖父が。
まるで、病などはなかったかのような、病気した方のようにやつれている訳でもなく、ただ、眠っているだけのような、今すぐにでも目を開きそうな。
祖父の心境を僕が測れるはずがありませんが、とても穏やかなように見受けられました。
伯母(てかウチの父末っ子なので叔父叔母がいません)の話によりますと、亡くなる1日前まではよく食べていたらしく、
基本的に病気は食物が喉を通らなければ危ないのですが、食べることが出来なくなったのは本当に亡くなるその日だけだったとのことでした。
2ヶ月前ほどにも祖父が危ないということがありましたが、その時の一件が随分沈静化していたので、あまり見舞いも多くなかったとのこと。
死因は、肺炎で、リハビリの部屋でウイルスをもらったということではないかという話でした。
誰もが、祖父が長く生きてきた割にはあまりにもあっけない最後であったと言っていました。
伯父伯母、従兄弟など、誰もが忙しくしている中、修行中の寺で色々と話をして抜け出してきたウチの兄貴を足して、
さらに、面識の無い親族の人々も集まったところで通夜が始まりました。
普通は菩提寺の住職が法主をやるはずなのですが、この時は父が法主で出てきた上に、兄も前の方で僧侶として通夜に参加していました。
兄も立派になったものです。
その後、食事をした後にしばらく周りの方々と話をした後、ホテルに一泊。
兄と会ったのもかなりの久方ぶりだったので、酒の入ってテンションの上がっている兄と語り合いながら、就寝。
次の日が朝から葬儀でした。父は昨日と変わらず法師で、兄も同じように僧侶枠。昨日呼ばれていた上人とは別の方々がいらっしゃっていました。
法事の後花を入れて、最後の対面。そして、棺の蓋を閉めて、一族が1人づつ四角い石で釘を叩いていく(名前知らない)ような儀式があったのですが、
これは祖父の子供からやっていくはずなのに、法主であるから父だけ最後の最後までやりませんでした。
仕事上の問題と考えるのならば、仕方ないと言えば仕方ないとしか言いようの無いことであるのですが、なんというか、それでよかったのか。
そう、父に問いかけたかったです。
周りの人達、孫辺りに当たる従兄弟達は涙を浮かべる人も多かったのですが、僕はやはりというかなんと言うか、涙が出ませんでした。
兄は相変わらずの僧侶枠ですから、涙の暇はないとして、そんなことでも無い僕は、自分自身の情けなさを噛み締めて、ただ祖父の運ばれていく棺を見ていました。
それから、火葬場でもう一度お経をあげてから、静かに祖父の棺が入っていくのを見届けて、ほんの少し安心しました。
それは、祖父のために涙する人達がたくさんいたことと、多分、自分自身が祖父の死を悲しいと思っている実感をなんとなく感じ取ったからだと思います。
自分から感じ取る、というのは変な話ですが、その時ははっきり言って自分でもよくわからない感情でした。
そして、祖父の御骨が焼きあがるまでの時間を控え室で待つので、法主が話をしなければならないのですが、
「これまでの葬儀で、一番ありがたいと思った」と、そう前日に言っていた穏やかな気持ちで祖父の死を受け入れていたようだった法主が、
その時だけ、ほんの少しだけ、父が涙しました。
そこでやっと、気が付いたのか、どうしてむしろ気が付かなかったのか。
父もまた人の子であると、僕はそんな当たり前をこのときになってようやく実感しました。
父のベストタイミングを迎えたのかどうかは知りませんが、少なくとも僕のとても大事な時期に祖父は逝ったのだと、そう感じました。
おそらく、この日が無ければ、僕は父のことを「心無い人間」と一生誤解を抱いたまま生きていくことになったに違いありません。
4人の子供と、7人の孫と、4人の曾孫。祖父はきっと僕以外の子孫達にも大事なことを伝えて去っていった。そんな気すらします。
また、しばらく他の人と話す機会があったものの、僕はあまりその場で色々と考え込んだり、祖父のことを話して悲しんだりはしたくなかったので、
いたって普通の、その場でなくてもできるような話をしていたと思います。
そして、その後骨壷に御骨を入れる時にも、もう一度お経をあげ、斎場に戻ってから遺骨となった祖父の法要をして、昼食後一度全員伯父の家へ。
伯父の家でも帰ってきた祖父の法事をして、それからしばらく伯父の家に留まってから、羽田空港へ行って、鳥取へと帰りました。
祖父の葬儀に出ることが出来てよかった。と、思いました。
それは、祖父の為はもちろん、自分自身のためにも。
父の逝く日に、僕はこの日の父のように立派になれるか、気が付けばわからないまま時間だけが過ぎていきました。
僕もまたこの日の父のように、「涙もろくなりました」という日が来るのか……。
それでは皆さん、ごきげんよう。