駅伝の中継だろう。


朝から上空をヘリコプターが飛び続けている。


ふらりと本屋さんへ。


ここらへんは、海からの風で吹かれてくる砂を避けるため、いたるところに松が植えられている。


昔は一面の松林だったらしい。


そこへぽつりぽつりと家が建っていったから、今でもその名残で庭付きの家には1、2本と松が残っていたりする。


普段はあまりにも当たり前すぎるそんな松の存在も、三が日に目にするとなぜかおめでたいモノに見えてきたりするから不思議だ。


思わず写真を撮りたくなって、携帯を持ってこなかったことを悔やむ。


本屋さんではお目当ての雑誌が見当たらなかった。


まだ発売日じゃないのかな…。


フラフラと他の雑誌や本などを眺めながら、自分の心境の変化に改めて驚く。


この1年ほど、「お店」というものを避け続けてきた。


お金が無かったからだ。


街行く人の雑踏へ入っていくことすら苦痛だった。


取り残された感。


絶望すら感じながら歩いていた時もあった。




今日の私は、ファッション誌にも目を向けていた。


以前だったら有り得ない行動だ。


元は大の本好きだ。


新刊にも目が向く。


そんな気分になれる自分を楽しむように、お店の中を歩いていた。


お店の中を歩いているうちに、ザワザワとした落ち着かない感じが沸いてきた。


パニックの発作…というほどではない。


ごくごく軽い予期不安、程度のものだろう。


今の私はまだ、「いつもより少し人が多い本屋さん」の中でも長居は出来ないんだな…


自分の体の不自由さにも、改めて気づかされる。


ファッション誌や新刊に目が向くようになったとはいえ、無駄な出費はできない。


音楽も本も、必要となれば当面は図書館のお世話になるだろう。


朝、目が覚めれば、体を起こす前にまず一番に感じるのは激しい頭痛。


頭を縛りつけられているような頭痛。


朝日を浴びて目を覚まそうと雨戸を開けても、日の光がまぶしくて目がチカチカする。


まともに目を開けていられない。


この頭痛は眠剤のせいだということは先生からも聞かされているし、自分でもその点は納得している。


今はこれもしょうがない。


やっと起きてなにか食べれば動悸。


一日を過ごす間、ずっと鳴り続ける耳鳴り。


今はこれもしょうがない。


それでも私は「今」に満足している。


「今」に満足するなんて、いったいいつぶりだろう。


もしかしたら、「実感する」なんて初めてかもしれない。




働いていた頃、「大掃除」をするのは三が日だった。


31日ぎりぎりまで働いていたからだ。


12月も末になると年末、年末、と言うけれど、「年末」ってつまり「月末」でもある。


請求書を作る人にとっては、「地獄の月末」だ。


しかも取引先の会社で「12/31が“期末”」という会社があった。


「年明け仕事始めの日には請求書が届いているようにしてください」


って、どんなイジワルなんだ。


しかもその会社から受ける仕事のピークが12月。


28日、29日あたりまで会社中てんてこ舞いで仕事をこなし、皆が仕事納めを済ませた後に、30日、31日を使って12月分の請求書を作り、会社宛に年賀状を書き、個人宛に年明け送信指定の挨拶メールを送る。


年が明けると、仕事初めの前に会社へ行き、事務所のレイアウト変更やサーバーのメンテナンスなど、業務が稼動していたらできないことを、3日、4日あたりに済ませる。


さすがにひとりでやるには切なすぎる作業で、年末が近づくと、上司と一緒にカレンダーを睨みながら、「せめて2日までは休もう」とか、「自分はこの日に出てこれをやるよ」「じゃぁ 私はこの日から出てこれをやるね」などと打ち合わせ。


「穏やか」とは程遠いお正月だった。




仕事を辞めてから迎えるお正月はこれで二度目になる。


忙しさからは開放されたが、去年の年末は別の意味でつらかった。


「年末に自殺者が増える」現象がなぜなのか、つくづく身に沁みて痛感した。




ここ数年、宇宙へ向かう人、ノーベル賞を受賞する人など、国際的に活躍する日本人が目立っている。


そんな人達が話す姿をテレビで目にするたびに、「なぜこの人達はこれほどのことを達成している人なのに、こんなにも、あまりにも“普通”なのだろう」と感じていた。


知人がこんなことを言った。


こういった人達は、「今」を見続けてきた人達なんだよ。


常に先々を見据えて、じゃないんだよ。


「今」 「今」 「今」


その「今」を積み重ねた結果がアレなんだよ。


ノーベル賞を目指した結果がノーベル賞なんじゃない。


ひたすら「今」と向かい合ってきた結果がノーベル賞なんだよ。




今年、私がこんなにも穏やかな気持ちでお正月を迎えられているのは、何をおいても「生活保護」の存在が大きい。


受給が始まったとはいえ、金銭的にかなり窮屈なことは確かだ。


「衣食住」のうち、「衣」は我慢しなければやっていけない。


松の内が明けて、世の中が通常モードに戻れば、また気が急いてくる自分が出てきたりもするだろう。


生活保護の「なんともいえない足場の悪さ」を、また実感することにもなるだろう。


世帯主が私になったことで、今後、自立へ向けて動く段階に入っていった時には、いままでだったら考える必要のなかったことまで視野に入れて動かなければならなくなってくるだろう。


それでも。


「今」 を、私はかなり穏やかに過ごしている。




去年の夏。


ひとくちもまともに食べることすらできない体で、横になっても座っていても体中に痛いくらいの痺れを抱え、一時的とはいえ初めて経験する対人恐怖に怯えながら、私は病院へ、役所へ、足を運び続けた。


そして長年、見て見ぬふりをし続けた母との関係に向かい合った。


あの時、私は「穏やかなお正月を迎える」なんてこと、考えてもいなかった。


ただただ、「今」をどうにかしなければ…


それだけしか頭になかった。


その結果が、今、こうして穏やかなお正月を迎えられる結果となってくれた。


食べる前にお雑煮を仏壇に供える。


お線香をあげて手を合わせる。


子供の頃からずっと続いてきた我が家の習慣。


家族がひとり減り、ふたり減り。


代わりに仏壇に並ぶ顔ぶれがひとり増え、ふたり増え。


それでも今年も、お雑煮を供えて手を合わせることができた。


手を合わせ、浮かぶ言葉は「ありがとう」


それしか他に、思い浮かぶ言葉がない。




人は、「比べる」ということをやめることができない生き物だ。


群れで生きる生き物なのだからそれはしょうがない。


群れで生きていく以上、そこに「優劣」が生まれてしまうのもしょうがない。


それは自然の摂理なのだろう。


きっとそのほうが「群れで生きていく」には、いろんなことが上手くいくようにできているのだろう。


その上、人が生きる世界には、「経済」だの「資本主義」だのといった、「生きていくために便利な仕組み」のせいで「生きづらさ」が沸いてくる、といったやっかいな事象が起こったりする。


そんなつもりは無いのにそれに乗せられ、「比べる」ことに必死になり、そして疲れ果ててしまう。


人と比べて疲れ果て、「今の自分」を過去や未来の自分と比べて疲れ果て。


「こんなはずじゃなかった」 と。


「こんな自分じゃイヤだ」 と。




今の私は、今の自分に満足している。


これも明日にはまた変わる心境なのかもしれない。


それでも 「今」。


頭が痛かろうと、耳鳴りがうるさかろうと、ちょっと混んでいる本屋へ入っただけで長居ができなかろうと、短時間の外出で疲れてしまおうと、少なくとも今日の私は「今日の私」に満足していた。




道沿いに目に入る松達が「明けましておめでとう」と言ってくれていた。


「今年の目標」は、無くていい。


「今」 があれば、それでいい。