都内某所。

春になるととても美しい桜が咲き並ぶ川沿いに人だかりが出来ている。

川の水はお世辞にも綺麗とは言えず、緑色で触るのも躊躇ってしまう様相だ。

川は8m近くはあろうかと思える高い堤防に守られ、その囲みの中でほとんど流れもなく佇んでいる。

私はドラマのロケでもやっているのかと、野次馬根性でその輪にまざり辺りを見渡すと、かなりの数の警察、消防、救急隊がいた。

川辺にはボートで川の中に存在する「何か」を棒や網で探している救急隊。


この状況で、その「何か」の答えは一つしかあるまい。

しばらくすると潜水士の様な出で立ちをした救助隊が3人順番に川に降りていく。

水位は90cm と伝達する声がはっきり聞こえ、徐々に増えていく周りの野次馬の数に比例するかの様に現場の緊迫感が増していく。

背広を着た捜査員の様な人も登場し、その状況がもしかしたらではなく、確実にその周辺に探している対象がある事を物語っていた。

慌ただしくなっている救急隊に目をやるのも束の間ふと川面に視線を写すと、先程までゴミしか浮かんでなかったのに何時の間にかそこにいた。

初老の男性の遺体である。

上下黒の衣服に黒のニット帽をかぶっている。

顔は天を仰ぐ様に上を向いていて、その腕は肘から90度死後硬直で曲がり、握り締めている拳もまた天を指している。

野次馬の輪に入ったその時から、この状況は予測していて、頭ではあまり見るものではないと言い聞かせているのに、その足は根が生えたように動かず、視線もまた彼から逸らす事が出来なかった。

半年前におきた東北の大震災の映像で、津波が自分の真後ろに迫っているにも関わらず、その津波が襲ってくるのを逃げながらも見つめている男性の映像が浮かんだ。

なぜ人は見てはいけないもの、見る事よりも優先すべき事があるにも関わらず、視線はその常識的な判断を超越してしまうのであろうか。

救助隊が彼を筏のような担架に乗せ、固まってしまった腕を綺麗にたたんであげて、手動のクレーンでゆっくりと川面から高い堤防の上へと運ばれていく。

まるで空に還るようにゆっくりと。

その間も私の視線が逸れる事はなかった。

ただ、視線の先は彼でなく、その彼の人生や家族について考えていた。

彼には家族がいたのだろうか。

いたのならば警察から家族に連絡が入り、突然の報せで悲しみに覆われてしまうのだろうか。

身寄りもなく、一人ぼっちだとしたらあまりにも悲しい最期ではないだろうか。

若い時はきっと恋をしたり、朝まで友人と飲んだり、幸せと呼べる時間があったはずだ。

それが今、人生を終えてたくさんの人の好奇な視線に晒されながら川から引き上げられている。

最初は興味本位で騒いでいた学生の集団も誰一人言葉を発する事なく、ただ引き上げられていく男性の姿をずっと見つめている。

私も思わず手を合わせ、自ら幕を閉じたのか、はたまた何かの事故で終わらせざるを得なかったのか、それとも何者かの手によって強制的に閉ざされてしまったのかはわからないが、心からご冥福をお祈りした。

しかしそんな状況の中で何よりも信じ難いのが、携帯でその男性の写真を撮っている人間がいる事だ。

動かなくなった老人の写真を携帯に納めて何をするというのだ。

あまりにも腹立たしい。

なんとも言えない気持ちになった。

そんな中でも私がただ一つ願うのは、あの男性の人生が実りあるものであったと、彼自身が最期に思っていて欲しいという自分勝手な願望だ。

喜びや楽しみより遥かに多い悲しみや苦しみを超えてきた最期があのような形で終わってほしくない。

それがたとえ名前も知らない、すれ違った事もない人だったとしても。

今まで日常のように感じていたような感覚。


携帯を開いてボタンを押せば、言葉を交わせる。


それがあいさつ程度のお話だとしても、毎日続くとなぜかその距離は近く感じる。



いつもその指先でボタンを触れた画面の向こう側に間違いなくあったそのリアルは、


まるで蜃気楼のように、あっという間に消えてしまった。



私はリアルに存在している。


このブログを読んでくださっているあなたも、同じように存在している。



でも、そのリアルはこちらからみると幻のよう。


あなたからも同じく、こちらは幻のよう。


両極端には間違いなく、同じ空の下にあるリアルなのに、画面を介すだけで幻となる。




こういう類の友人など、必要があるのかと思っていた。


顔も知らない。年齢も知らない。ましてや名前など知る由もない。


そんな人間に現実の自分をどう照らし合わせるというのだと。


そんな人間関係にお互いの歩んできた人生を理解しあえるのかと。



でも実際始めてみて、言葉を交わし、同じ経験をし、同じ喜び、同じ時間を共有することで、


こういう友人も素晴らしいものだと感じた。


年齢や上下関係、性別など分け隔てなく同じ目線で付き合える世界。



たとえそれがバーチャルな架空の世界の中だけだとしても、


その両端にいるのはお互いに感情をもった人間で、お互いに喜んで、怒って、哀しんで、楽しめる。



感情は顔を知らなくても共有できる。素晴らしい事だ。



でも蜃気楼が晴れてしまった後、その蜃気楼をもう一度見ようと思っても見ることができない。



僕がその場を立ち去ってしまったら、もう二度と見ることはできないだろう。



ただひたすらにその場に立って、



いつの日か見えるかも知れない蜃気楼を待ち続ける事しかできない。



蜃気楼もまたリアル。



そのリアルをまた見たい。



この画面から。