“命を救う”
尊厳さえも奪った戦争

戦地の病院で負傷兵の看護にあたった従軍看護婦やひめゆり学徒隊。今回、命がけで看護活動を行った3人の女性に話を聞いた。ソ連が進攻する満州で、地上戦の始まった沖縄で、そして戦後の福岡で行われたこと。『命を救うこと』その使命に命をかけて現地に行った少女たちの“たった一つの大切な尊厳”さえも戦争は奪った。
戦地に派遣された従軍看護婦は、日本赤十字社だけで3万1000人あまり。一方、現地で召集された女性も多く、その正確な人数はわかっていない。秋田県に暮らす山崎凉子さん(84)は、その一人だ。1944年、当時16歳。父の仕事で中国にいた山崎さんは、関東軍の看護婦養成所に入隊。実習教育を受け、旧満州・牡丹江の病院に配属された。「私たちは子どもと同じだから、重症患者が運び込まれても処置はできない。ただ、言われるままに動いていた」と話す。日々悪化する戦況。そして、1945年8月9日、ソ連軍が参戦。山崎さんのいる中国東北部に進攻してきた。山崎さんは、戦争の本当の恐ろしさを知ることになる。ソ連軍の侵攻に、病院に火を放ち撤退することが決まった。山崎さんは主任看護婦に呼ばれ、20本ほどの注射器を持たされた。動けない負傷兵は足手まといになる・・・軍医の命令で、青酸カリ入りの注射を重傷兵に打って殺すことになった。山崎さんは、「何が起きるか知らされてなくて・・・先輩看護婦が優しく、兵士に『今から楽にしてあげるからね』と言ったんです」と話す。注射を打たれ、悶え苦しむ兵士たち。茫然と立ち尽くす山崎さんに、主任看護婦は暴れる兵士をベッドに押さえつけるよう命令した。多くが「お母さん」と叫び、死んでいったという。山崎さんは、「命を助けるための援助をするのが看護婦の仕事なのに、殺すために私たちは連れて行かれたようなもの」と話す。
当時16歳だった与那覇百子さん(85)も同じ状況を目の当たりにする。1945年3月、沖縄で最も悲惨な戦いが始まった。与那覇さんは、ひめゆり学徒隊の看護要員として、洞窟内に作られた軍の病院に配属された。運び込まれた多くが、手足を失うなど、重傷を負っていた。与那覇さんは、「ピンセットがなかったから、小枝2本を割り箸のようにして使って、傷口からわくウジ虫を一つ一つ取った。新しい包帯がなかったから、元の汚い包帯で巻いてあげた。それしかできなかった」と話す。
与那覇さんは、アメリカ軍の砲撃の合間を縫い、命がけで食事の運搬を行った。「爆弾の嵐の中にいるようだった。明日か明後日かわからないけど、私も死んじゃうと思って、大声で泣いた」という。追いつめられる日本軍。病院壕も爆撃を受けるなど、アメリカ軍は、すぐそこまで迫っていた。そして、ついに、病院の撤退命令が出た。しかし、壕内には負傷兵があふれ、多くは立ち上がることもできないほど弱っていた。そこで与那覇さんが目にしたのは、兵隊が大きなドラム缶に入った青酸カリ入りのミルクを配っている姿だった。与那覇さんは、「青酸カリを受けた兵隊は、ものすごく怒って、『こん畜生!これが人間のすることか』と叫んでいた」と話し、その姿が今も脳裏から離れないという。どれだけの人が青酸入りのミルクを飲んだのか、わからない。
1945年8月15日、戦争は終わった。しかし、女たちの戦争は、まだ終わっていなかった。終戦翌年の春。韓国での看護婦の任務を終え、故郷の鹿児島県で暮らしていた村石正子さん(87)のもとに1枚の召集はがきが届いた。そこには『福岡県の二日市に出頭せよ』と書かれていた。博多港に続々と到着する引き揚げ船。村石さんの役目は、現地で乱暴を受け、望まぬ妊娠をした女性の中絶手術を行うことだった。船から降りてくる女性たちは、疲れ、痩せ果て、お腹だけが膨らんでいた。手術は、医療品不足のため麻酔なしで行われた。村石さんは、「みんな泣き声ひとつ立てないで、歯を食いしばっていた。握った手が折れるくらいに我慢して耐えていた」と話す。診療所跡には母子の像が祭られている。あれから先、彼女たちは、真実を隠し続け、生きていかねばならなかっただろう。その無念を思い、村石さんは手を合わせる。
テレビ朝日報道ステーション
2013年8月13日特集より
8月13日の後半に放送された特集です。
残念ながらこの動画は見つかりませんでした。
文字より映像のほうがインパクトがあるのですが、しょうがないですね。
ここ最近この日本って国は段々と右傾化しつつありますね。

かなりヤバい傾向ですぜー
戦争前の日本みたいな空気感になってきているとか…
過去の歴史から学ぶ部分は学んでもらいたいです。
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