悟ろうと思ったら悟れない!?
その悟りたいと言う思いを手放しをし、座禅なら筋肉と骨組に任せて思いを手放しをしていく事が大切なのです。
弓は的を狙わないと的には当たりません
あまり狙い過ぎるとまた的は外れます。
自然体で肩に力を入れず狙い過ぎず成り行きに任せた方がいいのですグッド!
ほんと自然体でいる事が結果は良い事になるのです。。
いつもいっていますが神人合一体験は不立文字です。
一種の三昧になって、神の力との合一がおこる
※対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのですパー

光のかけ橋日記
「尋常一様窓の月、僅かに梅花あってまた同じからず」と言う句がある見たいですが、
いつも見ている窓辺の月に変わりはないけれど、
きょうは梅一輪の匂いのために、同じ月が、まったく違って見えるのですニコニコ

またお釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。
しかし、その意味は誰にもわかりません。
その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました
今からおよそ2500年前にお釈迦様が悟りを開かれて、時空を超えて、人の心から心にと伝わったと言われがあります。
この摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものでした。
このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、
お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったのだと思います。
お釈迦様の時代に沢山の修行者がいても、ただ一人の摩詞迦葉尊者だけがお釈迦様の蓮の意味を理解できたと言う事なんですね!!
 
悟り(見性)を開いたと言う方はこの意味が理解できるでしょうグッド!

道元はなりきれ」とか「悟れ」とか教えないと言う事みたいですが、
仏が仏をする、その姿が悟りなのでしようから、
その仏として座り結果を求めないでただ座る事が大切なのです。

人間の本性が仏なのです。
死んで仏になるのではないのです。
本来悟ったのが人間なのです。
その悟った存在で、悟りを開くのではないのです。
開いているものを今開くと言うものなのかもしれない。はてなマーク
無いものから、現れない。
その悟った姿を何処までもして行く事が大切なのです。

その為には心の手綱をしっかり持っていないといけませんね。
人はサルのような心を持っているのです。
サルみたいに人間の心はいつもあちこち動いているのです。
いつも振り子のように心が揺れています。
天台智顗の一念三千のように、心のあり方によって天にも地獄にも通じてしまうのです。
しっかり正道、正法を学んで心の指示を天に合わしていかないといけませんねパー

道元入門の書物の中にあります。
秋月先生はこのようにおっしゃつていますね。
自己を忘れて、万法の方から逆に自己修証される時に(悟り)の世界が開けます。
自己が世界を対象として見ている時は、自己と世界とが二つになる。
逆に万法の方から進んで自己を修証するという時には、自己が無になって、自己は万法に一如して働くわけですから、
二つが消えて一そのものが動き出してくるのです。
要するに、一つのものを二つ見ているのが迷いで、二つのものを一つ見るのが悟りなのです。

雨が降れば雨になりきれ。山を見ればなりきれ。
なりきって「本来の自己」を、「真如実相」を自覚せよ。
禅匠たちは,常に、まずただこの事を直視してやまないのです。
道元はそれを「正法眼蔵」に、そして原成公案の巻で歌い上げようとするのです。
彼はそれを他の禅匠のように、「なりきれ」とか「悟れ」とか教えません。
ただ久遠の昔から、われわれ脚下にそなえられているこの「如」なる事実を、
みずから「本証妙修」の「」マくさの力量(やむにやまず、われわれをしてそうさせない、
またそうせるにおれぬようにする力)にうながされ、この「公案現成」の世界を文字として歌い上げてやまないのです。

道元入門-生の充実を求めるために (講談社現代新書) 新書 ? 1970/2/16
秋月 龍ミン (著)