今、沢山の方が

自分探し、自分にあった場所探しをしていると思います。

 

なぜ、私が 学ぶように なったのか?

インプットだけではなく アウトプットするようにしたのか?

 

生い立ち?出会い、学びなど

何回かに 分けて書いてみようと思います。

 

3

 

そうそう 私も!!とか

なんだ?とか

色々感じられると思いますが

気になる方だけ 続きをお読みください。

他の方は スルーしてくださいね。

 

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中学時代は 父との確執は エスカレート。

飲みかけのお酒を浴びせる、箸が飛ぶ

たま~に 馬乗りに殴られるなど。

 

私が 聞いてほしい事、

自分で 解決出来ない事が増えた事もあります。

学生とはいえ、同級生や先生、

テレビなど 色んな人、考えの人に出会いますから

私自身の考え以外の人も居るというのも理解できる年頃です。

[自分の考えが全ての父]とは

包丁を持って睨み合うなんて数回ありました。

 

朝は 無言、帰宅後すぐ晩酌の人でしたので

素面で話しを冷静に聞く人では ありませんでした。

「そっか」「そうなんだ」「色々だね」の

言葉は 未だに聞いた事はありません。

昭和の這い上がってきた世代の人。

 

私の体も 更にエスカレートします。

義務教育でなければ

卒業出来なかったのでは ないでしょうか?

体育の授業は ほとんど出ていません。

父とのやりとりで 毎晩のように 過呼吸になり

自分の部屋に戻ると痙攣を起こす繰り返し。

小学2年の初めて救急から精神科通いでしたが、

当時は MRIはありませんでしたし、

CTを取る事も少なく 脳波の検査を年に4回だけ。

まさか 小、中学生を脳外科で診るなんて病院でも思っても無かったのでしょう。

「てんかん」という診断でした。

精神安定剤と筋肉弛緩剤、鎮痛剤の服用を

20歳まで13年間続ける事になります。

精神安定剤・・・

呼吸が乱れると けいれんが起こることだけは

医者も理解して貰えていたようです。

薬の影響からか?

「うちに入る、爆発する」のヒステリックな性格になってしまいます。

 

ある朝、右半身が全く動かなくなります。

私は あ~昨日の夜 部屋で泣きすぎたからだ!!と

判断しましたが  両親はわかりません。

母が おんぶや自転車に乗せて通学始めました

鉛筆も握れません。

顔面も麻痺してるので喋れませんし、食べれません。

身体を起こして 座る事も出来ませんでした。

その後、利き手を変えて生活しますが

この右半身が少し感覚が戻ってきた頃に

左半身麻痺が起き 全く動けなくなります

左の感覚が少し戻った頃に、また右半身麻痺と繰り返します。

 

今も 感覚の鈍いところ?麻痺がある箇所もあります。

もう40数年経っていてもです。

その間、病院での脳波には異常なくリハビリを受けるという事もなく。

私を母はお祓いに連れて回るようになります・・・

この頃から 私はただの不調ではなく おかしいんだ・・と

自力で カラダを動かせるようにしたのです。

はやく この家を出たいから。

 

私は 頻繁に自傷を繰り返すようになります。

麻痺しているので  痛くない。怖くは感じなかった。

行為が 私の苦しみを両親に理解して貰えるのではないかと

思っていたのです。

が、全く反応はありませんでした・・・ガーン

もちろん 刃物を持った手も あまり力が入りませんから・・

出血はありましたが 救急車は呼ばれることはありません。

見苦しい傷として ココロにも腕にも残ることになります。

 

 

高校生活 夢?が 出来ました。

後悔は 

*両親が選んだ高校に進学したこと。

*運動部でカラダを動かしたかったので

部活をしていた期間は

今までよりも強い精神安定剤と筋肉弛緩剤、

鎮痛剤を服用するようになっていた事です。

とりあえず 引退するまで

副作用と闘いながら部活に専念しました。

もちろん 父のコントロールは続きます。

 

なんて 高校生活は簡単!!そうでもありませんが・・・

次は もう高校を卒業した社会に出る編です爆  笑

 

★★★★★

 

最後まで読んで頂きまして

ありがとうごさいます。

 

 楽しく過ごしていきましょう。

 

お尻と口角、気持ちも

上へ、上へドキドキ