〈今感じている喜びもなくなるよね〉
毎日思わずにはいられないこと。
「もしいるちゃんが元気に生まれてこれていたら、
私がいるちゃんを元気に産んであげられていたら、
みんなこんなに苦しまなくても良かったのに。
こんな窮屈な暮らしをしなくても良かったのに。」と・・・
もっと伸び伸びと深く息が吸えて、
平日はたんたんと過ぎて、
休日は朝からのんびりと和んで、
子どもたちが成長するごとに暮らしは穏やかになって
そんなどこにでもあるようなフツーの家庭で。
「普通の・・・」や「当たり前の・・・」
なんて言葉が溢れてきたらそこで立ち止まる。
普通とか当たり前なんてどこにもないんだって。
今ここにあるものすべてが奇跡的なことなんだって。
例えば元気に過ごせていたのに病気になってしまったり、突然の事故に巻き込まれたり、
大きな試練は誰にでも起こる可能性はあって、
羨ましく見えるあの人も本当は何か抱えているかもしれないしこの先出くわすのかもしれない。
もしも、もしも願いが叶って、
いるちゃんが発達に問題がなく順調に成長して大人になれたとして、だからといって
それで全てが完璧になるとは限らない。
また違うところで違う何かが起きるかもしれない。
だとしたなら、
少しでも笑える時間がある今が、
家族で楽しく過ごせる時間が少しでもある今の方がずっといいんじゃないかって。
そんなことを言い聞かせる。
だって、生きることの苦しさも、
生きられることの有り難さも、
ただ生活が送れることの有り難さも、
毎日の一つ一つささいな小さなことに感動して
感謝できる今の方がずっと幸せだと思う。
きっといるちゃんが今のいるちゃんじゃなかったなら、そんなことには気付けていなかったから。
道ですれ違う、公園で出くわす
スーパーで見かける、外に出るたび思い知らされる、
どこかの親子の姿が羨ましくて仕方なくなったとき、私はこのことを思い出します。
あの人たちがきっと取りこぼしてしまう、
当たり前の日常の中にこんなにも溢れている
たくさんの幸せに私たちは気付くことができると。
でも同時に、
そんなことを思っている時点で私はまだまだ誰かと比べてしまっていることにも気付くのです。
人と比べている。
人は人、自分は自分。
割り切れるようになるまではまだ当分時間がかかりそうですが、
いつか自分の人生を受け入れられるようになりたいなと思います。
そのときには「いるちゃんが元気に生まれてこれていたら・・・」なんて考えることもなくなるのかな?