〈心の中で思ってること〉




人間みな平等に

なにかの苦労を抱えて

運命を背負っているのだと思います。



人生シアワセ!だけで過ごせる人なんて

ほとんどいないはずです。

みな平等に

みな苦しんでいる。



けれど、

その苦労や苦しさ、

それは平等には与えられていなくて、

苦しさのレベルは中を覗いてみれば

苦労の中身だけを比べてみれば、

様々だろう。


 


だけど、

みんな自分の人生しか生きられないから

自分が感じる世界でしか生きられないから、

自分が置かれた境遇の中で

たくさん苦しんだり悩んだりしている。



誰かの経験からすれば

そんなこと大したことないって思えることでも、

その人にとってはとても辛い出来事だし、

どんなに絶望に打ちひしがれていても

きっともっと苦しんでいる人はたくさんいる。



だから、

不平等に苦しみが与えられても

不公平に見える世界でも

感じている苦しみは皆平等なのだと思う。

自分の世界で起きる何かに

皆悩み、傷付いているのだろう。



そのなかでも

障害のある子との暮らしは

なかなか厳しいものだと思う。

何が苦しいのか、

それは生きることそのものが

大変だからなのかもしれない。


なにか問題が起きるとか、

乗り越えなければならない試練があるとか、

具体的な出来事だけではなくて、

活動のすべてに支援が必要だから。

朝起きて夜眠るまで、

そのどの動きにも課題があるし

なにもかも気が抜けないから。



外にでると、みな足早に歩いている。

誰かと話しながら歩いてる。

「歩道を歩く」

ただそれだけのことも、

息子にとっては難しい。

なにが難しいかって、

区切られた道をまっすぐ歩く。

流れに沿って歩く。

歩くほどに景色に刺激を受ける。

途中で人とすれ違う。

・・・・・ほかにもある。


ただ駅に向かうのも、

保育園に行くのも、

家からすぐ近くの場所でも

それは簡単なことじゃない。



「公園で遊ぶ」

小さい子どもなら公園で遊ぶのが大好きだろう。

何時間だって遊んでいられる。

でも障害のある子には、

遊ぶことじたいが難しい。

たくさんの子どもたちがいる中で

ルールを守ること、

順番にみんなで使うこと。

ブランコに1人で乗ること。

好きな遊びを見つけること。

そんな当たり前に思えることはどれも難しい。





特別なことは何もいらない。

苦しみを選べるのなら、

息子に障害がなければ良かったと思う。

大人になって一人で生きていける、

自立できるくらいの能力と心と身体をもって

生まれてこれていたら・・・

と思います。



子どもは選んで生まれてきた

というお話は

どちらかといえば

私はあまり信じていません。

ただそういう運命だった。

だけなのだと思っています。

そこに意味はなく、

意味は生きている人間が付けているだけなのだと。




結局何が言いたいのかというと、

苦しくても辛くても

もっともっと大変な人もいるし、

自分の環境とはまったく違う意味で

苦労してる人もたくさんいる。

だから、すこしでも

心と体と暮らしに余裕があるのなら、

他の人に対してもっと

温かい目で見てあげる優しさや

手を差し伸べる優しさが

世の中増えていったらいいのになと思うのです。




誰かに頼らなければ生活が成り立たない

私たちのような者には、

誰かの優しさが生きるちからになります。



私も、誰か一人の

すこしでも助けになることも

あるのかもしれません。




たったひとつだけ、

息子の障害と共に生きられて

良かったなと思えることは、

本当の意味で苦しんでいる人、

生きることが辛い人の気持ちや

苦しさが分かったことです。

知らずに生きていたら、

本当に大切なことがなんなのか

分からなかったと思います。



それでもそんなことは知りたくなかった。

知らない人生であれば良かったのにと

思ってばかりの毎日ですが、

苦しんでいる人の痛みに

目を向けられるようになれたことだけは

唯一良かったことだと今は思っています。



いろんな事情で苦しんでいる人が

助けを求めやすい世の中になればな。

それに手を差し伸べる、

支えようとしてくれる優しい人が

もっともっと増えたらいいのになと

切に願います。