新潟にいる弟が、県北部の実家に救援に行くと言い出す。

とっさに止めてしまう。
被害の全容がわからない。県北部は震度も大きかった。
お隣、山形県も、ガソリン、物資が不足している。
道中で大きな余震に遭ったら、そこで立ち往生。被災者の仲間入り・・・。

新潟の弟は、独自に情報を集めて、たどり着けるから大丈夫だという。
もう1人の弟が一緒に行くともいう。
都内は買占め騒ぎが起きているのに、新潟はガソリンも物資も普通にあるとか。
勇気をもって引き返す事を約束して、救援をお願いする。

本当は私が救援に行くほうがいい。
新潟から行くより近いし、水もあるし。
ただ、ガソリンが買えなかった。石巻を往復するくらいはあったけれど、
使い切ってしまうと今後いつ買えるかわからない。
子供や義父母が体調を崩したら、病院に行くこともできなくなる。

歯がゆい思いで、弟達の無事を祈る。余震もなく順調に到着。
実家の両親は来ることを知らない。
携帯も電話も使えないので知らせようがなかった。
そして、驚き、とても喜んでいたそうだ。
元気でいるので、物資を置いて翌日には帰宅。


そこで発覚した事実。
実家には両親二人がひっそりといると思いきや、
友人夫婦、その息子夫婦+孫を避難させていて、
電気も水もない中、7人で生活しているという。

多くの幸運が重なって、
友人一家は自宅1階が水没したにもかかわらず、
避難をし、自宅から遠く離れた実家近くの避難所に運ばれた。
友人夫婦の奥様は、九死に一生を得たタイミングで車から脱出。
直後に目の前に車が浮かんできたとか・・・。

大変な生活ではあったけれど、今思えば、わいわいと過ごせたので、
心が痛む事がなく良かったよ、と母が言っていた。

半分農家なので、米と野菜はある。
地震翌日に湧き水をありったけのタンクに汲んできて、帰りに練炭を買ってきた。
灯油の備蓄もある。石油ストーブもある。農業用に雨水も貯めてあった。
毎日毎日、食事のやりくりで精一杯だったがなんとかやれたという。
友人一家(一族)は数日間避難所を転々とした上、たどり着いたそうで、
どれだけ助かっただろうかと思う。
6歳の孫は、着いてすぐ、熱が出たとか。ほっとしたんだね。



その頃私達は、マンション内を片付けながら洗濯をし、水を運んでいた。
ばあちゃんに子供たちを預けて。
PCは壊れなかったけれど、ネットがなかなか復旧しない。

マンションに帰るついでに、避難所になっている小学校に、自転車を取りに行く。
ポケットにお菓子を詰めて体育館に行くと、長男の同級生がチラホラいる。
配給された朝食はふりかけご飯のみ。1日2食。出るだけましになったの。
と、その子のお母さんが言う。
その頃まだ2000人がこの体育館に避難していた。
大人は食料などの買出しと、片付けに行っているそうで、子供と老人が目立つ。
長男の友人も、妹や他の小さな子と一緒にお留守番なのだとか。

いったいいつまで、こんな生活が続くんだろう。
マンションが多いこの地域では、電気・水が復旧しても、
ELVの復旧や耐震の問題で自宅に帰れない人が多いのかもしれない。

地域最大のショッピングモールが内部で大破し、店頭販売しかできていない。
徒歩圏内のスーパーは、雪が降っているのに長蛇の列。
自宅に帰れない人たちにとっては、こうやって命をつなぐしかなかった。
物流が滞っている事の影響がじわじわと迫ってきた。