カーテンを閉めていたら、あまり外はわからないですよね。
おそらく騒音主が騒音出してるんでしょうが、目で確認していないと、誰がどんなことをして、音をどんな風に出しているかを断定できませんよね?
ま、騒音は聞こえてはくるので、どんな状況なのかはほぼ推測できるのですが。
それをこちらの都合いい解釈に変えてしまうんです。
例えば私の場合、、、
隣の騒音主がまた車を掃除し始めたような音が聞こえてきたとしても、あえて確認をしてないで
隣の騒音主の車、ぶっ壊れたみたい
ぶっ壊れ具合を確認してるんだー
自分じゃあ直せないだろうに、諦めないねー
あれこれやってんだろうなぁー
修理代結構かかるんじゃないのー?
おつかれさん!
てな具合。
自分でそれを確認するまでは、実際はこうであるとは断定できませんよね?
じゃあ、自分の都合よく、おもしろおかしく解釈してもいいじゃないかなぁって。
これをできる時はやってます。
例えば、マンション。
上の階でドタバタの足音が響いてきたら、、、
どこかの家の人が、上の階の人にブチギレて文句言いに来て言い争ってるっぼいわー!
そうそう、この音よ!うるさいのは!
頑張れ、どこかの家の人!
とかね。
音は聞こえてきても、実際どうなっているかはわからないんですもんね。
騒音現実をガン見しても、ぜーんぜん変わりませんでした。
変わらないのなら、解釈くらい好きにしてもいい。
自分の好きに解釈しても、誰にも迷惑かかりません。
むしろ!
自分のメンタルを守ってくれる(こともある)
もし、これができるのならできる時だけやってみる。
無理はしない。
確認したい衝動を無理して抑え込まない。
騒音の解釈を変えたら、それはそれで現実が動くこともあると思うんです。
(解釈に無理や否定感がない場合ですよ)
それを楽しんで、『待ってろよ!現実!』とするのもいいかなぁって。
今はこんなことも自分の生活で実験中です。