女房三十六歌仙シリーズ?はいったん置いといて。。(失礼)
後醍醐天皇の寵姫となった女性です。
実家は苗字の通り阿野家で、父親は右近衛中将の阿野公廉。藤原家北家の閑院流(道長の叔父の公季が始祖)の流れをくむ公家の家柄。本家は三条家、西園寺家などがあります。直系の先祖?は源頼朝の弟阿野全成です。
実家の身分はさほど高くはなかったけど、
母親は不詳。のち洞院公賢の養女となります。
それでも女好きの後醍醐天皇にはうってつけの女性だったようですね。
最初は後醍醐天皇の皇后西園寺禧子(太政大臣西園寺実兼の娘です。)付の女官として御所に入ります。
だから三位の局と最初は呼ばれてました。
そして後醍醐天皇のご寵愛を受け4人の子供を儲けます。第五皇子恒良親王、第六皇子成良親王、第七皇子義良親王(後村上天皇)、伊勢斎宮祥子内親王です。
最初のうちこそただの側室の一人にすぎなかった廉子。でも夫の後醍醐天皇の野心の強さゆえに運命に翻弄されていくのです。
その始まりは、鎌倉幕府から政権を奪う目論見を腹心たちとしてたのです。
このころの政治は鎌倉幕府が一手に引き受けていたのです。京都の朝廷は手も足も出せない状態でした。
原因は後鳥羽上皇の起こした承久の乱のせいです。それに京都の朝廷は大負けに負けて、後鳥羽上皇は隠岐の国に流罪。
上皇の息子順徳天皇は佐渡島に流罪。
もう一人土御門天皇がいましたが、彼はこの謀反騒動には加わらず、逆に父帝と弟に思いとどまるよう説得したんだけど、逆切れ?されて結局それはできませんでした。
最初は京都の朝廷軍は勢いづいてました。天皇という錦の御旗を立ててる自分たちが負けるわけないと高をくくってました。逆に鎌倉幕府は帝や皇族を討ち果たすなんて恐れ多いと思ってたのです。でもそれを鼓舞したのはほかならぬ尼御台の北条政子でした。「故頼朝公の御恩と奉公を忘れてはなりません!」と御家人を集めて説得したのです。そして勢いづいた鎌倉幕府軍は頑張って京都の朝廷軍を打ち負かしました。まさかの事態に後鳥羽上皇親子は呆然。そしてこの期に及んで皇族の自分たちを幕府が処罰できる訳ないと何処までも己惚れてた?(失礼)これじゃ鎌倉幕府の心証なんて良いわけがなく、結局流罪となったのです。当然側近たちなどほかの関係者たちも処罰を受けてたのです。ただ土御門天皇は本来はおとがめなしなのに、自分から申し出て土佐の国に流罪となったのです。(のち京都に近い阿波の国に配流の場所が変わった)なんとまあ往生際の悪い?父帝、弟帝とはえらい違いだなと私は思いました。
鎌倉幕府も最初は戸惑いましたが、断るのもおかしい?と思ったのか結局土御門天皇の言うことに従いました。
その息子が長年冷遇されてたけど、その時の潔い態度がよかったのか、のち後嵯峨天皇に即位します。その間は後鳥羽上皇の弟守貞親王の子孫(後堀河天皇、四条天皇)が即位してたけど、二人とも10~20代の若さで崩御したから結局皇統を継ぐものがいなくなり親戚筋を探してたらそういえば。。って感じで後嵯峨天皇を探し当てて彼を即位させたのです。後醍醐天皇はそのひ孫にあたる人です。
長い前置きとなりましたが、夫の後醍醐天皇の即位のいきさつもいろいろあって。。31歳で即位するまでずっと皇太子だったのです。といっても生まれながらの皇太子だったわけではないのです。
その後嵯峨天皇も崩御前に後醍醐天皇の祖父にあたる亀山天皇の子孫に皇位を継がせるように遺言したのです。これが南北朝時代の始まりといっても過言ではなかったのです。
それに待ったをかけたのが鎌倉幕府と亀山天皇の兄後深草天皇です。同じ父母なのに余の方が冷遇されるとは何事?と鎌倉幕府に掛け合って自分の息子の子孫も皇位を継がせてほしいと頼んだのです。
亀山天皇も内心面白くないが、仕方ないかと互いの子孫を順繰りに即位させることで決着をつけたのです。
結局治天の君(要は院政を司る主)になりたかっただけなんですけどね。
息子を即位させ自分は上皇や法皇となって京都の朝廷を仕切りたかっただけなんですよ。
でも政治の実権は鎌倉幕府なんで朝廷はただ平安時代の暦通りのイベントや儀式をやってその文化を守り、当時の優雅だった時代をしのんでたいだけ。。というかそれしかやることがなかったのですよね。
それに不満だったのが廉子の夫後醍醐天皇でした。
なぜ鎌倉幕府にいつまでも牛耳られんといかんのか?って常々うんざりしてたのでしょう。父や祖父やその側近たちのやってるのをじっと見てたのでしょうが。いつしかそれが野心に代わっていったのも時間の問題だったのかもしれません。
廉子はその運命に巻き込まれていったけど、結局自分もそこに便乗してちゃっかり天皇の母となったのですから二人とも似た者夫婦だったのかもしれませんね。
長くなりましたが、↑の説明をしないと当時の朝廷や幕府の背景や彼らの生きざまもわからないと思ったのであえて説明させていただきました。
しかし、本来夫は皇太子にも天皇にもなれないひとでした。
持明院統(後深草天皇の子孫の皇統がこの名前です。のち北朝)の花園天皇の皇太子と夫はなったのです。この時もう20代でした。廉子も禧子の侍女でしかなかったし、でもその間に夫に見初められ、4人の子供儲けました。そして三位局と朝廷の連中から呼ばれるようになります。
当時の皇統もいろいろあって、夫の皇統の大覚寺統(亀山天皇の子孫の皇統。のち南朝)も当時の主後宇多天皇(夫の父親)の意向で異母兄後二条天皇の子孫に皇位は限るとか言い出したので、夫はそんな義父に反発します。夫だって息子たち何人もいたし、その子にいずれは即位してもらい自分が治天の君になりたかったでしょうからね。
ただの治天の君じゃなく、本当に鎌倉幕府から政権を奪い取り、自分は平安時代の村上天皇たちのように親政をして賢帝と呼ばれたかったのでしょうね。
夫はそれだけの野心がありました。廉子もそれなりに夫を理解して支えてやりたいという気持ちもあったのかもしれませんね。
でもそのためにいろんな壁が廉子たちを襲うのです。
それはのちに正中の変、元弘の変と呼ばれる二度の謀反でした。
当時の鎌倉幕府に夫や側近たちの行動は筒抜けでした。
まあスパイもそれなりにいたと思うし、京都に朝廷の監視する機関六波羅探題もあったし、
それに夫や側近たちは気づいてたかどうかはわからないけど。
最初はばれても御とがめなしだった夫だったけど、禧子の安産祈願という名目で祈祷やそのあとの宴のときに、美濃の国守護の土岐氏を味方につけたてのです。そして側近の日野家の連中を動かしてたのですけどね。その間に土岐氏の親族から幕府に密告があったのです。でも日野家の連中を流罪にしてあとは尻切れトンボみたいに決着がついたのです。
さすがに二度目は幕府も容赦しませんでした。後醍醐天皇は京都の御所を出て笠置山に軍を率いてそこに立てこもったのです。でも結局負けて天皇は隠岐の国に流罪。廉子も御供すると言ったのです。最初は家族も側近も反対してたが、聞かなかったので結局ついていくことになりました。それだけ夫を愛してたかもしれんが、内心はこれで自分の株を上げてあわよくば自分の息子を皇太子にできるかもと思ってた廉子も相当な野心家ですよね。
長くなりそうなので続く。