続きです。
夫が流罪となって2年後、彼女は夫とともに脱出。
地元の豪族名和長年の屋敷に身を寄せてたのです。
しかし側近の日野俊基は乱の責任を取って処刑されます。
やがて鎌倉幕府も足利高氏や新田義貞たちの攻撃を受けて滅亡。
時の執権赤橋守時や得宗だった北条高時たち北条の一族が鎌倉の東勝寺にて自害します。
そしてやっと夫の天下となります。そして親政が行われてこれがのちの建武の新政と呼ばれるんですけどね。
廉子も夫の寵姫として夫に寄り添い多忙な日々を送ってました。まあ鎌倉から朝廷に100年ぶりに政治の実権が移ったから浮かれてたのはわからなくもないですけどね。。。
でもその人事は公家が上位で武家が下という平安時代のときとさほど変わらないやり方で不満に思う武士もたくさん出てきました。そりゃそうですよね。鎌倉幕府の下にいても出世の見込みないし、領地も増えるわけでもなく逆に兄弟相続のせいでどんどん減っていく一方。反鎌倉の立場に立ち、新しい主を探して、家を上げて夫に尽くした武士たちは当然面白くないですよ。
それでも新田義貞や楠木正成のように夫に忠誠を誓う武士たちも中にはいましたが。。。。
そして夫に反旗を翻した武士もいました。それが足利高氏でした。彼ははじめのうちは夫に心酔して忠誠を誓い、夫もそんな高氏をかわいがり、自分の本名尊治から一字をとって(偏諱)尊氏と名乗らせたほどです。
でもやはり建武の新政での武家と公家との格差の人事に失望したようで。。。
そして自分たちのための幕府を立てたのです。そして征夷大将軍に任命してもらうにはまた別の天皇が必要となって結局北朝の光厳天皇に即位してもらい彼から任命して室町幕府を開いたのです。
これに夫は驚き怒りました。まあ当然ですけどね。そして夫は京都から吉野の方に逃れたのです。
そこで自分たちの朝廷(南朝)を開いたのです。
そのころ廉子は夫に付き従いずっと一緒でした。そして次の皇太子が誰になるかってことで頭がいっぱいだった???
まあ廉子に三人の皇子がいました。三人ともそれぞれいろんな方向の戦場に行かされてたのです。のち後村上天皇となる義良親王が東北の多賀城に赴いたのです。それに付き従ったのが後醍醐天皇の側近北畠親房の息子顕家でした。
そして廉子の長男恒良親王は新田義貞たちに奉られて北陸の越前金ヶ崎城の統治を任されます。
次男の成良親王は足利尊氏弟の直義に奉じられて関東の鎌倉の統治を任されたのです。
そして最初皇太子になったのが恒良親王でした。しかし廉子には有力なライバル?がいたのです。それは後醍醐天皇の第三皇子大塔宮護良親王でした。
当時彼は天台宗の座主を務め、鎌倉幕府攻撃したときには征夷大将軍に任命されずっと夫帝に付き従ってました。
でも自分こそが皇太子になれるかもと周りの者たちに持ち上げられたけど、、それは叶わず、結局廉子も承知の上で護良親王を謀反の疑いありで足利尊氏の弟直義が処刑したのです。まあ廉子が自分の息子を即位させたいばかりに邪魔な護良親王を陥れたんだといわれてますが。。
でも護良親王は皇太子になれるほど身分も高いわけでもなく、確かに実績は積んでますけど。。。
でも本人はそこまで皇位に執着はなかったのでは?と思いますが。それに皇位継承はもう生まれた時からないも同然だと思われたからこそ出家させられたんだと私は思いましたが。
実母は夫の祖父亀山天皇の側室だった女だったのですから。
でも父親のためにと息子は奮闘してたんだと思います。ただ、聡明すぎるために足利尊氏の野心も見抜いてたし。でも当時高氏をかわいがってた夫は耳を貸さなかったのかもしれませんね。
それが護良親王には面白くなかったのかもしれません。そこを廉子たちにつかれたのかもしれませんね。
もちろん夫もグルだったかも。だからこそ「尊氏より父帝が恨めしい」と最後に恨み言言ったのかもしれませんね。
まあ強力なライバルいなくなった廉子ほっとしたかもしれませんが。でも尊氏が裏切ったし、休む暇もなく吉野でずっと夫に付き従ってたと思います。
そして楠木正成も新田義貞も相次ぐ戦で命を落とします。
そして夫も失意のまま吉野の御所で崩御。息子の後村上天皇が即位。彼女は皇后や中宮に準じた后(准后)となり、女院となります。そしてそれから約10年後に崩御。
享年59