「わたしは、絶対に◯◯が大切だと思ってるの。」
「それが、当たり前でしょ?」
わたしが思っている当たり前は、世界中誰もがそう思ってる当たり前だと思っています。
「みんな、そう思ってるよ。」
そう言う時がありますが、
「じゃあ、みんなって誰のこと?」 と聞くと、
「誰って、みんなよ。」 と、曖昧な返事になってしまう。
自分の信念を貫くことが、良いことだとか、悪いことだとかのお話しではなく、
そう思っていることは、必ず、フォーカスしてしまいます。
ネット検索をする時や、本屋さんへ行くとき、買い物をする時、さまざまな場面で、
わたしが、全く「花」に興味がなければ、
ネット検索もしなければ、本屋さんへ行っても「花」の本の所へは行かないし、わざわざ花屋さんで買い物をすることもありません。
こんなふうに、わたしがわかっていることでも、無意識にフォーカスする、しないの分類をしています。
厄介なのは、自分でも気づいていない信念です。
何故、自分の信念を知る必要があるかなのですが、
体のしくみに、恒常性機能があり、どちらにも偏っていない状態を保とうとします。
血液検査をして、「高ナトリウム血症」「低ナトリウム血症」になると、必ず他の臓器や血液等々が、正常値に戻そうと働きかけ、それでも無理な時に、このデーター結果となって出てくるように、
この世のしくみには、偏りを戻そうとする働きがあります。
自分の持つ信念が強ければ強いほど、逆の信念を観せられます。
正義が強ければ強いほど、悪を観ることになり、
悪を憎む結果、悪を排除しようとして攻撃してしまうようなイメージです。
幸せと不幸せが交互にやってくるのは、
マラソンの折り返しと、よく似ています。
自分の信念が活かされる、自分の信念を貫いたことで上手くいく。 などが起こりますが、ある程度まで行くと、折り返し地点になり、
その信念では、まかり通らなくなったり、信念を貫いたことで、上手くいかないような出来事が起こったりします。
その信念があってもなくてもいい。
そんな状態になると、自分がその信念を貫いて活かされてきた体験が、必要な時に、必要なタイミングで活かされて、次のステップに進めるようになります。
今まで体験してきたことは、何一つ無駄なことはなく、
特にピンチの時に助けてくれるのが、
一番自分が、長くやってきたこと、
一番自分が、苦労してやってきたこと、
一番自分が、拘ってきたことです。
だけど、偏っていると、それが活かされない。
自分の信念を見つけるのは、意外に簡単です。
誰かに対して、腹が立つことです。
仕事を、いとも簡単に、楽しそうにやっている人を見ると、腹が立ってくるのは、
「仕事は、辛いモノ」
と、思い込んでいる自分がいたりします。
「仕事は、辛いモノ」 だと思い込んでいると、どんな仕事でも「辛いモノ」と捉えます。
ある人は、「少し時間がかかりそうだけど、これをやったら達成感が半端ないな。」と思うのに、
その人は、「本当に仕事って、辛い。」 と思ってしまう。
自分の人生は、自分で創造しています。
その選択をしているのは、わたしです。