人には、感情があります。
楽しい、嬉しいなどの『快』の感情は、どれだけ味わってもいいけれど、
苦しい、辛い、悲しいなどの『不快』な感情は、できれば味わいたくない。
感情は、感情であり、人間が持っている当たり前のもので、
それ以上でも、それ以下でもないと思っていました。
霊性進化プロセスに突入したことで、感情は、課題投下のサインだと知りました。
不快な感情は、心も体も停止させます。
このタイミングが、課題投下です。
感情が現れたことで、頭の中では、
「ああでもない、こうでもない」
「あんなこと言うけど、わたしだって・・・」 と、わたしの言い分をもっと言いたい気分になる。
わたしは、絶対に間違っていないと思っているから、とにかく頭の中で色々、色々、本当に色々考えてしまう。
あとは、我慢するか、はっきり言ってやるか、
時間が解決してくれると錯覚し、悶々とした日々を過ごしていました。
梅干しを食べたことがない外人は、梅干しを見ても、酸っぱいという感覚を味わうことがないけれど、一度でも梅干しを食べたことがあれば、梅干しを見た途端に、「酸っぱい」と口の中が、キュッとなる。
そんなふうに、感情が現れるのは、何か記憶があるからです。
場面こそ違えど、
過去に悔しい思いをしたり、大人に何度も何度も言われ続けると、
それがあたかも正しいことのように思い込んでしまいます。
例えば、
「仕事は、辛いもんだ。」と、毎日毎日聞かされ続ければ、
まだ仕事もしたこともない3歳でも、
「しごとって、つゅらいんだぁ~」 と思い込んでしまう。
自分の親が言うのですから、間違いない。
感情が、課題投下のサインだとわかってから、
感情 = 課題 → 答えをみつける = 鏡の法則を遣う
答え = 裏側のわたし
裏側のわたしを見つける → 不快な感情が消滅し、肯定の流れに乗る
これを延々と続けると、
不快な感情は、ほぼ無くなっていきます。
言い方を変えれば、
感情は、課題投下だとわかっているので、答えを出せば、その感情は消滅してしまうことがわかっているので、いつまでも感情に振り回されることはなくなってしまいます。
わたしは、いつか不快な感情は全く無くなってしまうのではないだろうかと思っていましたが、成長を望むと、やはり感情で教えてくれます。
ただ、自我の世界にいたような、辛い、苦しいという強い感情はありません。
胸に重さを感じる。
何かつっかえているものがある。
という感覚です。
でも、答えを見つけた途端、その感覚は消滅してしまいますし、
「そういうことか!」
と、ワクワクするので、これが答えだとわかります。
だけど、成長できるのは、その答えをみつけた後です。
その答えを、現実世界で実際に行動に移すということをしないと、また、元の次元に戻ってしまいます。
感情に振り回されることを、延々と感じていくのか、
それとも課題の答えを探して、霊性進化プロセスを進んでいくのかは、自由であり、わたしが、どちらを選択するかだけです。