わたしが観ている世界は、わたしの意識を投影した世界です。
必ずそうなるのは、わたしが意識的にせよ、無意識的にせよ、そのことを意識していることで、フォーカスしてしまうからです。
全く気にしていないことは、全く気にならないので、全くフォーカスしません。
よく、「私は、◯◯のことなんて、気にしてませんから。」という言葉を聞くことがありますが、気にしていなければ、その言葉さえも出てきません。
見たことも、聞いたことも、読んだことも、体験したこともないことは、フォーカスしようがありません。
忘れたいのに、忘れられないことには、必ず感情がくっついています。
あの音楽を聞くと、必ずあの頃のことを思い出すとか、
この風景を見ると、あの日のことが蘇ってくるとか、
小学生の時の特定の同級生のことを思い出すのは、その子との何かの思い出があるからです。
「そんな子いたっけ?」レベルの子とは、全く関りがなかった、自分の意識の中に残らなかった存在だったからです。
生まれてから色んな体験をしてきたことで、色んな記憶が残ります。
わたしが観る外の世界が、わたしの意識を投影したモノだとなると、
わたしにとってのこの現実世界が、自由だと思えるには、
わたしの内側の世界が、自由だと認識する必要があります。
では、どうすれば自由だと認識することができるのか。
わたしが、わたしの内側が自由だと認識できたのは、
「何を思ってもいいんだ。」
そう思えた時でした。
道徳を習ってきたわたしは、心の中に常に正義が存在していました。
わたしの持つものさしから、はみ出た人は、悪い人、間違っている人。
わたしの持つものさしの中にいる人は、良い人、正しい人。
外の世界を観た途端に、ジャッジが始まります。
相手を責める。
その考え方をする人、その行動をする人、その言い方をする人が赦せない。
この世界は、鏡の世界です。
赦せない相手は、裏側のわたしです。
赦せない相手に対して、ジャッジした自分を責めるのではなく、
そう思ったことを素直に認めていくことを、延々と続けました。
そして辿り着いたのが、
「あぁ、わたしは何を思ってもいいんだ。」
そう心底思えた時、
「あぁ、わたしは自由だ。」
そう思いました。
わたしを縛っていたのは、わたしが思う言葉でした。
内側が自由になったことで、現実世界も自由になっていきました。
働く時間、業務の内容、休む日。
好きな家事を、余裕をもってできるようになり、
お金に対しての制限がなくなりました。
これは、無駄な物は買わなくなり、必要で尚且つ満足する物を買うことができるようになったということです。
わたしにとっての内側の世界の自由は、言葉の制限を無くすことでした。